第七章 かしもの・かりもの 天理教教典

たいないゑやどしこむのも月日なり
むまれだすのも月日せわどり    六 131
 
人体のこの精巧な構造、微妙な機能は、両親の工夫で造られたものでもなければ、銘々の力で動かせるものでもない。

すべては、親神の妙なる思わくにより、又、その守護による。

にんけんハみな/\神のかしものや
なんとをもふてつこているやら   三 41
  
にんけんハみな/\神のかしものや
神のぢうよふこれをしらんか    三 126
 
この世に生れさせて頂き、日々結構に生活しているのも、天地抱き合せの、親神の温かい懐で、絶えず育まれているからである。

即ち、銘々が、日々何の不自由もなく、身上をつかわせて頂けるのも、親神が、温 み・水気をはじめ、総てに亙つて、篤い守護を下さればこそで、いかに 己が力や智慧を頼んでいても、一旦、身上のさわりとなれば、発熱に苦しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が己が住む世界となつて、手足一つさえ 自由かなわぬようにもなる。

ここをよく思案すれば、身上は親神のかしものである、という理が、自と胸に治る。

めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん    三 137
 
銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に隨うて、つかわせて頂くのが肝腎である。

この理をわきまえず、我が身思案を先に立てて、勝手にこれをつかおうとするから、守護をうける理を曇らして、やがては、われと我が身に苦悩を招くようになる。 

これを、

人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つが我が理。
おさしづ(明治二二・六・一)

と教えられている。

人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。

たった一つ の心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在と いう理を聞き分け。

おさしづ(明治二二・二・一四)

自由自在は、何処にあると思うな。めん/\の心、常々に誠あるのが、 自由自在という。

おさしづ(明治二一・一二・七)

即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の 心遣い一つによつて定まる。

それを、心一つが我の理と教えられる。

しかるに、人は、容易にこの理が治らないままに、あさはかな人間心から、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく、己一人の苦楽や利害にとらわれて、一れつの和楽を望まれる親心に、もとる心を遣いがちである。

親神は、かかる心遣いを、埃にたとえて、戒められている。

元来、埃は、吹けば飛ぶほど些細なものである。

早めに掃除さえすれば、たやすく綺麗に払えるが、ともすれば積りやすくて、油断をすれば、 いつしか、うずだかく積りかさなり、遂には、掃いても拭いても、取り除きにくくなるものである。

よろづよにせかいのところみハたせど
あしきのものハさらにないぞや   一 52
  
一れつにあしきとゆうてないけれど
一寸のほこりがついたゆへなり   一 53
 
心遣いも、銘々に、我の理として許されてはいるが、親神の心に添わぬ時は、埃のように積りかさなり、知らず識らずのうちに、心は曇つて、 本来の明るさを失い、遂には手もつけられぬようになる。

かかる心遣い をほこりと教えられ、一人のほこりは、累を他に及ぼして、世の中の平和を紊すことにもなるから、常によく反省して、絶えずほこりを払うよ うにと諭されている。

このほこりの心遣いを反省するよすがとしては、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ、又、 「うそとついしよこれきらい」と戒められている。

親神は、これらの心遣いをあわれと思召され、身上や事情の上に、しるしを見せて、心のほこりを払う節となし、人々を陽気ぐらしへと導かれる。

せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ
神がほふけやしかとみでいよ    三 52
  
めへ/\にハがみしやんハいらんもの
神がそれ/\みわけするぞや    五  4
  
めへ/\の心みのうちどのよふな
事でもしかとみなあらわすで    一二 171
  
これみたらどんなものでもしんぢつに
むねのそふちがひとりてけるで   一二 172
 
即ち、いかなる身上のさわりも事情のもつれも、親神がほおきとなつて、銘々の胸を掃除される篤い親心のあらわれと悟り、すべて、現れて来る理、成つて来る理をよく思案するならば、自と、心のほこりを払うようになる。

かくして、ほこりさえ綺麗に掃除するならば、あとは珍しいたすけに浴して、身上は、病まず弱らず、常に元気に、守護頂ける。

ほこりさいすきやかはろた事ならば
あとハめづらしたすけするぞや   三 98
 
しかるに、人は、心の成人の未熟さから、多くは定命までに身上を返すようになる。

身上を返すことを、出直と仰せられる。

それは、古い着物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもので、次には、又、我の理と教えられる心一つに、新しい身上を借りて、この世に帰つて来る。

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
よろづいさいのもとのいんねん   一  6
 
人間には、陽気ぐらしをさせたいという親神の思いが込められている。

これが、人間の元のいんねんである。 

しかるに、人間は、心一つは我の理と許されて生活すうちに、善き種子もまけば、悪しき種子もまいて来た。善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる。

世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんね んもある。

おさしづ(明治二八・七・二二)

およそ、いかなる種子も、まいてすぐ芽生えるものではない。

いんねんも、一代の通り来りの理を見せられることもあれば、過去幾代の心の 理を見せられることもある。

己一代の通り来りによるいんねんならば、 静かに思い返せば、思案もつく。

前生いんねんは、先ず自分の過去を眺め、更には先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自分のいんねんを悟ることが出来る。

これがいんねんの自覚である。

親神が、種々といんねんを見せられるのは、それによつて人々の心を 入れ替えさせ、或は勇ませて、陽気ぐらしをさせたい、との篤い親心からであつて、好ましからぬいんねんを見せられる場合でさえ、決して、 苦しめよう困らせようとの思召からではない。

いかなる中も、善きに導かれる親心にもたれ、心を治めて通るならば、すべては、陽気ぐらしの元のいんねんに復元されて、限りない親神の恵は身に遍く、心は益々明るく勇んで来る。

人の幸福は、その境遇に在るのではなく、人生の苦楽は、外見によつて定るのではない。

すべては、銘々の心の持ち方によつて決まる。

心の持ち方を正して、日々喜び勇んで生活すのが、信心の道である。

即ち、身上かしもの・かりものの理をよく思案し、心一つが我の理で あることを自覚して、日々常々、胸のほこりの掃除を怠らず、いかなる 場合にも、教祖ひながたを慕い、すべて親神にもたれて、人をたすける 心で通るのが、道の子の心がけである。

そこには、自他の心を曇らす何物もなく、ただ、親神の思召のままに生活させて頂き、連れ通り頂いている喜びがあるばかりである。
 
このよふハ一れつハみな月日なり
にんけんハみな月日かしもの    六 120