諭達第三号
立教百七十九年、教祖百三十年祭を勤めるに先立ち、思うところを述べて、全教よふぼくの仕切っての成人と一手一つの活動に資したい。
教祖は、世界一れつをたすけるために、だめの教えを啓かれ、子供可愛い一杯の親心を以って、たすけ一条にお通りになり、五十年にわたるひながたの道をお遺し下された。
この間、たすけづとめを教え、万事の元を明かして道の次第を整えられ、明治二十年陰暦正月二十六日、かねて仰せのつとめの実行を尚も急き込み、人々の成人を促して、現身をかくされた。以来、「今からたすけするのやで」とのお言葉通り、存命の理を以て、今も変わることなく、世界たすけの先頭立って私達をお導きくだされている。
この限りない親心に仕切ってお応えすることこそ、教祖の年祭を勤める意義である。心新たに、よふぼく一人ひとりが立教の本旨を胸に刻み、陽気ぐらし世界建設のよふぼくとしての自覚を高め、ひながたを目標に実動すべき旬である。
陽気ぐらしは、何よりも親神様の子供である人間が、互いにたすけ合って暮らす世の在り様である。
また、
よくにきりないどろみづや
こゝろすみきれごくらくや (十下り目 四ツ)
十二下り
心さいすきやかすんた事ならば
おふでさき
どんな事てもたのしみばかり (十四 50)
と仰せられるように、陽気ぐらしは心を澄ます生き方でもある。
慎みを知らぬ欲望は、人をして道を誤らせ、争いを生み、遂には、世界の調和を乱し、その行く手を脅かしかねない。我さえ良くばの風潮の強まりは、人と人との繋がりを一層弱め、家族の絆さえ危うい今日の世相である。
まさに陽気ぐらしに背を向ける世の動きである。
心の拠り所を持たず、先の見えない不安を抱える人々に、真実のをやの思いを伝えて世界をたすけることは、この教えを奉じる者の務めである。
今こそ、道の子お互いは挙って立ち上がり、人々に、心を澄まし、たすけ合う生き方を提示して、世の立て替えに力を尽くすべき時である。
よふぼくは、教えを学び身につけ、日々実践して、土地所の成程の人となろう。天地抱き合わせの理を象る夫婦をはじめ、己が家族の在り方を正し、たすけ合いを実行して、足元から陽気ぐらしの輪を広げよう。
また、教会に心を繋ぎ、足を運んで、その使命であるおつとめを勤めるとともに、会長を芯に、陽気ぐらしの手本たる姿を地域に映そう。
時として、親神様は子供の行く末を案じる上から、様々なふしを以て心の入れ替えを促される。
しかし、
とのような事をするのも月日にわ
おふでさき
たすけたいとの一ちよはかりで(十二 78)
と、全ては、ひたすら一れつ人間をたすけてやりたいとの親心からであると仰せられる。
あらゆる災厄や難渋は胸の掃除を求められる親心の表れである。
自らを省みることはもとより、見せられる事柄を通して、人だすけを促されていると受け止め、積極的なおたすけを心掛けたい。
また、常に人だすけを心掛けてこそ、世界たすけを掲げる教えの信仰者であり、それは「人たすけたらわがみたすかる」と仰せられるように、自らが真にたすかる道でもある。
おたすけは周囲に心を配ることから始まる。
身上・事情に苦しむ人、悩む人があれば、先ずは、その治まりを願い、進んで声を掛け、たすけの手を差し伸べよう。
病む人には真実込めておさづけを取り次ぎ、悩める人の胸の内に耳を傾け、寄り添うとともに、をやの声を伝え、心の向きが変わるようにと導く。更には、共々に人だすけに向かうまでに丹精したい。
世の人々が元の親を知り、一れつ兄弟姉妹の真実に目覚めて、互いに睦み合い、たすけ合う神人和楽の陽気世界の実現を目指して、弛むことなく世界のふしんを進めよう。
教祖百三十年祭へ向けての三年千日、教祖の道具衆たるよふぼくお互いが、その使命を自覚し、任務に邁進して、御存命の教祖にお喜び頂きたいと願ってやまない。
立教百七十五年十月二十六日 真柱 中山善司