山田作治郎 やまださくじろう
南海大教会の初代会長。
万延元年(1860)12月19日、紀伊国牟婁郡川瀬村(現、三重県南牟婁郡御浜町大字川瀬)で山田作平、土星互の長男として出生。
家は「宮ノ芝」とよばれ、信仰するようになった頃は、農業のかたわら雑貨商を営んでいた。
26歳の時、同じ村の上里と結婚した。
商売も順調であったが、前から患っていた胸の病が嵩じ、医薬、祈痔など手を尽くしたがその効がなかった。
そこで名医のもとで療養するため大阪へ出ることになった。
大阪の地理に詳しい畑林為七(後に南海2代会長となる)が同伴した。
明治20年(1887)9月のことである。
かねて大和の筆墨行商人から聞いていた「大和の生き神様」のことを思い出し、途中道をかえて「おぢば」に帰った。
9月24日のことである。
そこで「神様のお話」を聞き、「さづけの理」を取り次いでもらった。
身も心も軽く明るくなった。
そのあと大阪へ出て、有名な緒方病院で診察を受けたところ、「病気はないから安心してよい」とのことであった。
二人ははじめて親神の不思議な守護を目の当たりにして感激の涙を拭うことすら忘れたという。
作治郎は「おぢば」で聞いた「人たすけたら、わが身たすかる」という話に新鮮な感動を覚えたのであるが、10月16日、帰郷後直ちに、おたすけ活動を開始している。
畑林為七も帰宅するや布教をはじめたので、たちまち、この地方に道が広まった。
そして、明治20年の暮れには二人講元として「正明講」を結成している。
こうして現南海大教会の基礎がつくられたわけである。
明治32年本部員に登用。
翌33年1月16日に出直した。享年40歳。