守屋筑前守 もりやちくぜんのかみ
森本筑前守が正しい呼び名であるが、通称、守屋神社(村屋坐弥冨都比売神社)の神職であるところから、守屋筑前守と呼ばれる。
文化6年(1809)10月15日、大和国式下郡蔵堂村(現、奈良県磯城郡田原本町蔵堂)で生まれる。
父は森本丹後正藤原尚賢、母は山澤利助の娘きみ。
幼名は三代翁、その後、勝治、豊治、求馬と改名。
父の没後、文政12年(1829)に京都の吉田家より神職「継目」を許可され、両官職「森本筑前守」を拝受。
天保11年(1840)には神主職許状を受け、守屋神社の神職となる。
さらに嘉永元年(1糾8)に吉田神祇管領から、大和一国の神職取締である「大和国神祇道示諭方」に任命され、嘉永5年(1852)には、従五位下の位階を得て、「大神朝臣廣治」と名乗り、文久元年(1861)に、「大日本諸国神祇道取締方」に昇進した。
守屋筑前守と天理教との関わりは、この文久以後のことで、それはちょうど天理教初期の信者達ができてきた頃からである。
とくに、筑前守の妻きみの姉そのは大豆越の山中忠七の妻であり、そのの病から山中忠七が入信し、そのの不思議なたすけに感じて、実家の新泉村の山澤家が入信。
そして忠七の姉の嫁ぎ先であった永原村の岡本重次郎が信仰をはじめ、山澤家の末女いその婚家である大西村の上田平治も入信した。
この4家ともそれぞれ村の有力者で、山澤家の姉妹を通じて、筑前守は親戚関係があった。
そうしたところへ、元治元年(1864)の大和神社の事件が起こっている。
7日間の祈藤中であった守屋筑前守の祈藤を妨害したということで、神職取締の役にあった筑前守にかかわることでもあり、3日間、当時の信者たちが留め置かれたのである。
こうしたことが契機となって、筑前守は教祖(おやさま)に面会している。
その後、慶応元年(1865)の「助造事件」、また慶応3年の吉田神祇管領の公認をうける上に、天理教の理解者として大いに活躍した。
筑前守は明治12年(1879)9月3日、71歳で出直し。
明治20年、教祖御葬祭の時、祭主をつとめた守屋秀雄は筑前守の息子である。