天理教教会辞典 愛静大教会 あいせいだいきょうかい

愛静大教会(あいせいだいきょうかい)

澤田家の入信と道一条への胎動

愛静大教会の道の初代澤田惣右衛門は、安政元年(1854)5月5日、愛知県知多郡豊浜村に生を享けた。

当時澤田家は穀物屋を業として、経済的にも何不自由なく恵まれた日々を送っていた。

澤田家の入信は、初代惣右衛門の妻せいが、ある日、当時西隣りに住んでいた木学小右衛門より、「今夜結構な神様の話があるから、聞きに来ないか」と言われたのがその始まりである。

元来素直なせいはすぐ承知して、その旨を夫に告げたところ、惣右衛門は「そんな結構な話なら儂(わし)が聞いて来てから聞かしてやる」と言って、自ら話を聞きに行った。

そこで初めて小笠原いちという人から親神の名を耳にしたのである。

色々と話を聞くに従って、神様の深い御恩を知り、その話が終るとすぐさま、その場で信徒に加入させて頂きたいと言って、信徒加入書を書いて来たと言われる。

時に明治26年(1893) 8 月29日、澤田家入信の時である。

それも自分の身辺に現れてきている様々な姿(自分の眼病による片目喪失、妻の出直、兄の行方不明)から神様の話は身に泌みた。

生まれつき決断力に富み、性格の激しかった初代は、入信以来日も浅いにもかかわらず一心に道を求め、悪因縁を切って頂くにはこれしかないと布教に邁進した。

その布教熱を物語るエピソードの一、二を挙げる。

エピソード1(赤痢のおたすけ)

明治26年の晩夏、知多郡小座村で集団赤痢が発生し、村全体が絶対隔離されて外部の者は入れなかった。

初代は、その村で「おたすけ」をしたい一心から、夜になるのを待ちかねては、こっそりと裏の方から一つ山を越しては毎夜毎夜おたすけに通った。

エピソード2(精神病のおたすけ)

またその後碧海郡高浜町ではひどい精神障害者がいて、7年もの間手足を鎖でつながれ座敷牢に入れられていた。

それをどうでもたすけんものと、初代は熱心に通い続け、病人の側に座り母親に色々と話を取り次いだ。

母親の精神が定まると同時にその病気もたちどころにご守護頂いたのである。

こうして道は知多郡から碧海郡へと次第に広がっていった。

愛三布教所設立と移転

明治28年5月頃、初代は高浜町で家を一軒借り信徒2人を連れて、米や世帯道具を船に積んで布教に出かけた。

その後小垣江、深間、高棚にも道がついてきた上から、その地形的中心地である高棚へ教会設置の議が起こり、明治30年6月11日、愛知県碧海郡高棚村178番戸に深津秋次郎という人の家を借り、愛三布教所設置のお許しを頂いた。

これが今日の愛静の前身ともいうべき教会お許しの最初である。

しかしこの地方は真宗の熱(2枚目)心なる土地で、地方の役場は天理教に対する理解など全然なく、初代の如何なる努力にもかかわらず遂に地方庁の認可が下りなかった。

その後初代にたすけられたある信者の縁者が、渥美郡小塩津においてひどい胃病で苦しんでいた。

初代は熱心におたすけに通い、殆ど全快するまでになった。

そのことが契機となって、新しく渥美郡方面へと道は拓け始め、この地方での教勢がまとまりかけてきた明治33年12月、当時上級の東愛支教会が現在地に移転の時、「東愛支教会四家族入り込み願」により、次の様な「おさしづ」を頂いた。

「さあ/\尋ねる事情々々、一日の日を以て尋ねる事情、事情は将来々々の心、将来は末代と言う。又皆んなそれ/\集まりて道と言う。又日々の心将来の理に許そ/\/\」かくて、一家族揃って東愛支教会屋敷内に入り込むこととなったのである。

そのため、名古屋から渥美郡への布教に日々通うこともできず、それからは信者である永井泰助宅を根城として、この地方の布教に一層の拍車をかけた。

そして明治35年に至り、永井泰助宅を教会として献納することとなり、5月20日愛知県渥美郡堀切村大字小塩津35番地に、以前高棚で設置された愛三布教所の移転の許しを得た。

そして旧8月14日鎮座祭、15日開筵式がそれぞれ盛大裡に執り行われた。

このようにして、渥美郡地方に最初の教勢の根がしっかりと張られ、初代は須佐、小塩津を巡りながら布教につとめた。

「愛静の理」の芽ばえ

愛三布教所の布教線が豊浜、高棚、渥美地方へと順次延び広がっていった。

そして教祖20年祭を前にして八名郡、宝飯郡方面へと布教線は更に拡大されていったのであるが、かねてより初代は、将来の発展を図る上から東三地方の中心であり、交通の至便なる豊橋への進出を深く心中に意図していた。

その親の思いに添って、当時道についていた知多郡、渥美郡の主だった人は、永年住みなれた故郷の地をあとにして馳せ参じた。

それらの人々が今日の愛静の礎を築いた人々であると言えょう。

そして皆の「一手一つ」になった心と真剣なる働きとによって、大正6年(1917)10月31日、初代惣右衛門の永年の念願通り、豊橋市大字中世古字中世古76番地に愛静宣教所設立の許しを得、今日の愛静大教会の第一歩がここに実を結んだのである。

当時初代は病気がちで、名古屋の東愛分教会の屋敷内に臥していた。

その様な事情からも、愛静宣教所設立と同時に、愛三宣教所を永井泰助に譲り、新しく設立された愛静宣教所の任に、嗣子常五郎が当たることとなった。

常五郎は、それまでにその任に当たっていた愛澤宣教所長の職を他に譲り、大正7年2月16日鎮座祭、17日奉告祭をつとめ新生の第一歩が踏み出された。(以下澤田家の入信の初代惣右衛門を初代と呼び、愛静宣教所の初代所長常五郎を初代会長と呼ぶ。)

また東愛初代会長の思召により、愛三を始め既設の教会は、愛静を上級として部属教会とすることとなった。

一方この大きな喜びに反して、激動と苦難の道中を道の初代として通り切った惣右衛門は、末代の理の栄えを信じ、大正7年11月21日、65歳の生涯を静かに閉じた。

以後初代会長を芯として、教祖40年祭を目指し、旬の声に勇み立ち一層布教に精魂を傾けて、教線は次第に伸び広がって、大正12年、13年に計12カ所の部属教会新設を見、ここに教勢3倍加の実を挙げた。

そして大正14年10月、愛静支教会と改称昇格し、喜びと感激の中に教祖40年祭を迎えたのである。

苦労なくては理がない

昭和12年(1937)、愛静の道の初代惣右衛門の20年祭を迎え、その記念事業として、市内小畷町に2149.36m (650坪)の土地を購入することが決議された。

部内一同は慶びに満ち溢れ全力を尽くして勇躍した。

その結果、土地購入の資金が比較的順調に整った。

初代会長は、こんなに苦労なく土地を購入しては勿体ないと意を決して、その土地購入代金をまず献納し、再度皆の真実を結集し、昭和14年に有難くもその土地を購入することができた。

初代会長はこの感激に勇み立ち、求めた土地の一部を抵当に入れ、愛知県農工銀行より借り入れをして、御礼の理立てをした。

これも苦労を求め、御恩に報いたいとの初代会長の信仰信念が偲ばれるエピソードの一コマであろう。

戦後の復興と移転建築

小畷町に皆の真実によって買収した土地は田であった。

時あたかも「日華事変」の最中で、世上は騒然とした中をも、役員信者らは埋め立て「ひのきしん」に勇んでつとめ切った。

神殿建築用の材木の献納もあったが、昭和16年第2次世界大戦勃発により、その他の建築資材の厳しい統制を受け、材木は倉庫に眠ったまま、なかなかんしんの緒につくことができず、その上青壮年は戦野に、婦女子は軍病院の奉仕などと駆り立れ、ふしんも遂に延期の止むなきに至った。

そして終戦も間近い昭和20年6 月19日、愛静分教会は戦禍によってすべての建物を焼失、また都市部にある部内教会も戦災を受け、いずれも灰燼(かいじん)に帰した。

さらに移転予定地に献納された材木が格納されていたが、それらもすべて焼失した。

見わたす限りの焦土と化した中ながらも、初代会長の意に添って、既に購入してあった小畷町6番地の土地へ、この際思い切って移転しようとの計画のもとに、21年1月に許しを得て、仮神殿を建築した。

次いで昭和24年、部内の建築をまず済ませてという東愛大教会長の親心によって、終戦直後としては実に立派な本建築の神殿の落成をみた。

またこの間昭和21、22、23年の3年間に計7カ所の教会が新設され、形の「ふしん」とともに、「たすけ一条」の道は着実な進展を見た。

東愛大教会60周年と神殿建築

上級、東愛大教会創立60周年を昭和27年に執行する旨が打ち出され、それまでに大教会神殿建築を完成することが決定した。

初代会長は、このふしんこそ自己の最後の御恩報じの御用であると、寝食を忘れ老軀に鞭うちつとめる中にも、9月の終わり頃より身上で床に臥せることとなった。

その念願の神殿ふしん落成と、創立60周年を27年12月16日に迎え、身上ながらも端座しつつ遙拝し、2代真柱に挨拶した。

その日初代会長の胸中に去来した感慨はいかばかりであったであろうか。

明けて28年1月21日頃より昏睡状態に入っていたが、23日夜半、枕頭にいる家族、役員、見舞客等に、「この道は人間考えでは通れない、神一条にもたれ切って通るように」との最後の言葉を残して24日未明73歳の生涯を閉じた。

2代会長と教勢の3倍加

初代会長出直の後をうけて、嗣子惣一郎が2代会長に就任した。

時あたかも教祖70年祭提唱直後であり、この節から大きな芽を出すためには、初代、2代にわたる親の伏せ込みの理を生かす他はないと、初代会長出直の節に直面して、ともすればいずみ勝ちな部内を強く励まし、教勢3倍加を就任と同時に提唱した。

部内一同は、2代会長の声に心を合わせ、懸命に年祭への活動と併せて、教勢の3倍加に寝食を忘れつとめきった。

昭和28年より30年までに31カ所の教会が新設され、既設の25名の教会長に加えて、新たなる31名の教会長は、教祖70年祭祭典に登殿参拝の栄誉に胸るわせながら、一層の「たすけ一条」への前進を誓いあった。

さらに70年祭の年である31年中に3ヵ所の教会が新設され、「70年祭迄に70カ所」の合言葉からすれば、目標達成の域に達したとはいえないながらも、合計58カ所の部属教会を数えたことは、内に新しい活動の波紋を起こしていった。

また教祖70年祭には丁度100歳というめでたい高齢を重ねた初代夫人せいは、70年祭の教会長の招宴には、特に2代真柱より招きを受け、親しく盃を頂戴したことなど、この上ない喜びを胸に抱きながら、翌昭和32年3月28日101歳の天寿を全うして出直した。

昭和32年11月、初代惣右衛門の40年祭を迎えた。

この40年祭をめざして、2代会長の深い思いから客間ふしんが打ち出された。

夏にふしんにかかり、秋には出来上がるというスピードふしんながら、部内一丸となって、勇躍し立派にその工事の完成をみた。

大教会へ陞級と教祖80年祭

教祖80年祭を半年後に迎えんとする昭和40年5月19日の月次祭前日、東愛大教会の世話人中山慶一と、東愛大教会長の巡教があり、突如として、「東愛より分離し、『ぢば』直接の御用をさせて頂くように」との話があった。

あまりの突然のことに、会長を芯として、役員、直属教会長は種々協議を重ね、いろいろと談じ合ったが、ぢば、上級の80年祭をめざして、一段と成人させてやろうとの深い親心に応えるためにも、その話を受ける決意を固めた。

昭和40年6月26日、第134番目の大教会として陞級のお許しを頂いた。

そして同年11月10日、 2代真柱をはじめ多数の来賓を迎えて、大教会陞級奉告祭がつとめられた。

またこの年、新たに1カ所の新設教会を加え、部属教会59ヵ所となった。


移転建築(人づくりのふしん)

教祖80年祭は大きな感激と喜びの中につとめ終えられた。

そうした中に、かねてより祭典日などには、神殿が手狭で敷地も余地が殆どない上から、適当な移転地がないものかと探し求めていた。

2代会長は、常に将来の道の発展を見通して、どうしても1万坪(33,000㎡)位の敷地が必要であることを強調していた。

候補地を物色すること10数カ所、その歳月も当初の頃から数えて約10年後、遂に親神様、教祖にお鎮り頂くに相応しいと思われる現在地(大岩町)が見つかり、一同協議の上これを買い求めることに決定した。

この決定に当たっては、折りからの会長の身上という大きな節もあり、役員、部属教会長達の心は一段と固く定まり、昭和43年7月3日、16,52892㎡(5.000坪)の土地購入の契約を結んだ。

ここに移転建築の大事業はその緒についた。

そして同年10月には、移転建築のお許しを頂き、土地購入と並行して早くも建築の第一歩へと着手した。

しかし移転建築の歩みを本格的に進めようとする昭和44年の初め頃より、2代会長の病状は刻々と悪化し、同年3月19日、「この度のふしんこそ、大教会らしい人づくりをするふしんである」と常に口ぐせのように語りながら、遂に柱一本建ち上った姿も見ずに、将来の道の栄えを脳裡に描きながら、波乱と激動に満ちた64年の生涯を閉じた。

3代会長就任と移転建築落成告祭

2代会長出直という悲しみも醒めやらぬ昭和44年4月19日、嗣子惣平が3代会長に就任した。

悲しみや感傷にふける間もなく、既に設計図も決まり、お許しも得ている移転建築完成こそ、3代会長に与えられた天からの試練であると、3代会長は役員、部属教会長をはじめ信者の先々に至るまで、前会長の遺志を伝え一丸となって一大事業をおし進めた。

部内一同は会長を芯に一手一つに懸命につとめ、本部からお許し頂いた日の昭和45年5月9日、木の香も新しい新神殿に真柱の手によって、親神、教祖をお鎮め頂き、翌10日、感激とたとえようもない慶びのうちに、移転建築落成奉告祭が執行された。

詰所(第89母屋)ふしん

世界たすけのきりなしふしんは、教祖90年祭を目標として真剣に進められていった。

この90年祭への歩みの中で、愛静大教会として特筆すべき事項としては、詰所用地の決定購入という思いがけない御守護である。

過去数年間いろいろ詰所建設用地を物色して、交渉も重ねていたがなかなかまとまるまでには至らなかった。

そうした中に昭和49年7月末日、当時の板倉内統領より突然用地の話があり、とんとん拍子に話がまとまり、翌50年全部内の真実が結集され、豊井町にある3,508㎡(1、061坪)の土地を買収できたことは、部内一同忘れ得ぬ喜びであった。

そして、教祖90年祭も終った昭和53年4月21日、第89母屋建築の許しを得て、同年10月29日起工式が執り行なわれ、本格的な工事にかかった。

それから満1カ年、関係者の人々の幾多の苦労とともに、部内の全教会が懸命の努力を重ねた結果、順調に母屋が完成し、昭和54年11月23日、真柱をはじめ、来賓諸氏を迎えて慶びに満ち溢れる中、母屋開きが執り行なわれた。

思えば分離陸級以来14年ぶりに、この日を迎えた喜びは一入深く、この母屋を「たすけー条」の上に大いに活用せんものと誓い合った。

教祖100年祭をめざしての実動

教祖100年祭実動第1年目の昭和56年、諭達第3号が発表され、部内一同は諭達に込められた親の思いを肝に銘じ、またとない重大な旬に奮起を誓い合った。

なおかつ大教会活動方針として、「教祖ひながたの道を辿り、成程の理をつくろう」をスローガンとして、さらに1、「年頭の心定め達成」、2、「悔いのないぢばへの伏せ込み」、3、「後継者の育成」を3本柱として、精一杯の努力を重ねた。

中でも後継者の育成には、3代会長は一層と心を砕き力を注いだ。

入り込みの一部の者については、会長室に近い場所において、共に生活する中に育成を図りたいとの会長の深い思いから、その年の12月26日、附属建物増築の許しを得てふしんも進められた。

さらにこのまたとない100年祭をめざして、「たすけ一条」の活動は懸命に続けられ、教祖100年祭の年の昭和61年には、遂におぢば帰参者1万名を突破し、過去最高の足跡を残した。

次の塚への旅立ち

教祖100年祭を感激裡につとめ終え、翌昭和62年は立教150年の記念すべき年である。

さらに愛静が大正6年に設立されて、丁度満70周年を迎える年でもある。

こうした旬の立て合いの上から、次なる200年祭をめざして、「白紙に戻りーより始める」決意も新たに、全部内教会が「初代の苦労を超えた苦労を求めよう」を合言葉に、前進を誓い、その歩みを進めている。

愛静大教会年表

年号月日内容
安元5月5日初代澤田惣右衛門、のちの愛知県知多郡豊浜村に出生
明治13年都築せいと結婚
14年12月7日初代会長澤田常五郎出生
26年8月29日澤田家入信
30年6月11日愛三布教所、愛知県碧海郡高棚村178番戸にて設立(所長澤田惣右衛門)
33年12月22日「おさしづ」にて許しを得、初代家族共上級東愛支教会住み込む
35年5月20日爱三布教所、爱知県渥美郡堀切村大字小塩津35番地へ移転
40年12月1日2代会長澤田惣一郎出生
42年1月18日愛三宣教所と昇格改称
43年1月15日愛澤宣教所設立(所長澤田常五郎)
大正6年10月31日愛静宣教所、愛知県豊橋市中世古町字中世古77番地にて設立(所長澤田常五郎
7年11月21日初代澤田惣右衛門出直(65歲)
14年10月1日愛静支教会と改称昇格
昭和7年12月23日2代会長、鶴田ヤよと結婚
8年10月3日3代会長澤田惣平出生
10年11月17日2代真柱、愛静へ初のお入込み
12年惣右衛門20年祭にあたり、市内小畷町の50坪の土地購入を決議。14年に購入
21年3月4日愛静分教会、豊橋市小畷町6番地へ移転
24年10月16日移転建落成奉告祭
28年1月24日初代会長澤田常五郎出直(73歲)
3月26日澤田惣一郎2代会長に就任
4月10日2代会長就任奉告祭
31年1月教祖70年祭三年千日に31カ所の教会設立(28年2カ所、29年24カ所、30年5カ所)
32年3月28日初代夫人澤田せい出直(101歲)
5月27日附属建物増築願のお許しを頂く
11月惣右衛門40年祭にあたり、客間ふしんの打ち出し
34年5月14日中山善衛青年会長、愛静へ初のお入込み
35年12月8日3代会長、春野よし子と結婚
40年6月26日愛静大教会へ陞級
11月10日大教会陞級奉告祭
43年10月28日豊橋市大岩町字車田20番地へ移転のお許し
11月20日移転建築起工式
44年3月19日2代会長澤田惣一郎出直(64歲)
4月19日澤田惣平3代会長に就任
6月2日3代会長就任奉告祭
45年5月10日移転建築落成奉告祭
50年2月28日第89母屋建設用地買収
11月20日大教会陞級10周年記念祭
52年2月26日創立60周年記念祭臨時祭典願のお許
5月29日創立60周年記念祭
53年10月29日第89母屋起工式
54年11月23日第89母屋、愛静詰所竣工式
56年12月26日附属建物増築のお許しを頂く
60年10月20日大教会陞級20周年記念祭
61年9月26日創立70周年記念祭臨時祭典願及び附属建物増築願のお許しを頂く
[関連文献]
  • 『愛静月報』
  • 『愛静道の歩み』(創立60周年記念出版)
  • 『天理教愛静大教会年譜表』(創立70周年記念出版)