森田清蔵 もりたせいぞう
明治7、8年頃から19年頃までの河内伝道の上に大きな役割を果たし、また天理教会設置運動にかかわった。
森田清蔵は安政元年(1854)11月27日、現在の生駒郡三郷町南畑に生まれた。
信仰は、現在の生駒郡斑鳩町自石畑の大東重兵衛と親戚にあたるとこから伝わったようである。
大東重兵衛は明治7年(1874)11月、教祖(おやさま)が山村御殿に出向かれた時、お供に加わってた人である。
そうしたことからすると入信はそれ以前ということになり、森田家の信仰も古いといえる。
清蔵が布教に歩いたのは明治7、8年頃からのようである。
南畑というところは大阪河内に通じる街道の峠にあり、ほとんど大阪と奈良の境に位置している。
清蔵の家はそこで茶店をやっており、道行く人ににをいがけをしていたようである。
一説によると、山本利三郎ににをいをかけたのは清蔵であるともいわれている。
清蔵の母たけは三郷村勢野の人で、その関係で勢野方面にも相当布教に歩いて信者をつくっている。
明治9年には河内の国分村へ布教に出かけている。
この国分には親戚で米屋の辻勘七がおり、そこに泊まっておたすけにまわった。
その前後、河内の刑部村におたすけに出、梅毒で5年ほど病んでいた山田長造に話を伝えた。
その話をそばで聞いていて感心して入信したのが、長造の友人であった松永好松である。
好松は後に南大教会を興す。
そしてその遠い親戚にあたる松田音治郎も、その話を聞いて入信し、敬真祖の講元となり、後に本部につとめた。
また大阪三軒屋を中心とした真心組(現、西大教会)の講元にもなり、後、撫養大教会を開いた土佐卯之助の信仰にも大きな影響を与えている。
そうした点で、大阪の布教伝道の上で大きな役割を果したといえるであろう。
明治15年10月の教祖の御苦労の折には、共に拘留された。
明治17年には、大阪で心学道話講究所をつくり、代表となっている。
さらに、18年の教会創立の会合にも出席している。
清蔵は教祖から
「あんたは道のしるべ石や」
という言葉を頂いたと伝えられる。
根は善良で、お人好しの世話好きではあったが、断ることが嫌いという性格であり、人の上には立てず、真心組の講元もすぐにやめている。
のち再出発を誓い別席を運んだが、その後、間もなく出直した。
大正10年(1921)68歳の時である。
この別席を運ぶとき、土佐卯之助に会い、「森田先生でないか」となつかしがられたという話が伝わっている。