天理教人名辞典 加見兵四郎 かみひょうしろう

加見兵四郎 かみひょうしろう

加見兵四郎は天保14年(1843)9月8日、大和国式上郡笠間村において、宗次郎(『東海の道』に宗治郎と書く)とたみの長男として出生。

兵四郎6歳の時父の放浪癖のため、母は妹きくを連れ離婚、兵四郎は父と共に叔父の家に住んだ。

兵四郎8歳の時、父は行方をくらまし、両親に相次いで捨てられた。

笠間の叔父に引き取られその虐待に堪えかね、外山にある厳格なことこの上もないという煙草刻み屋に奉公に出た。

その後転々と職を変えた。

明治5年(1872)30歳の時、奈良見物の帰途庄屋敷へ詣り、教祖(おやさま)にお目通りすることができた。

翌年妻つねを迎えた。

つねの初産に庄屋敷へ詣りをびや許しを頂いた。

この日、明治6年11月3日を兵四郎は入信の日としている。

それより明治13年頃まで年に数度おぢばに参拝し、教祖からお諭しを頂いた。

明治14年、兵四郎39歳の時、隣村倉橋村出屋敷の山本与平の妻いさが不思議なご守護を頂いたと聞き、兵四郎は道一条を決意した。

24戸の講社の結成をみた。

この頃心勇講講元山田伊八郎と出会い、機会あるごとに談じ合い、布教に励んだ。

兵四郎は教祖より結誠講の講名を頂いた。

明治18年兵四郎43歳の時、心勇講2代講元上村吉三郎が、周辺講社を結集しようと兵四郎を訪ねた。

その要請を入れて、出屋敷5戸ないし6戸、西山から6戸、兵四郎の講社24戸を合併し、心勇講結成となった。

兵四郎が高見峠を越えて伊勢布教を始めたのは明治19年44歳の時からである。

3月18日伊勢国一志郡多気(たげ)村から要請があったのでおたすけに行った。

21日には飯南郡渡瀬村へおたすけに行った。

布教で家をあけるため兵四郎の家の生活は赤貧洗うが如き状態で、内証で家業をすれば家族に身上者が出た。

明治19年9月10日「加見兵四郎少々家業さして被下度御伺」を伺った。

「おさしづ」に

「さあさあ尋ねるじ上じ上は、あかき道、白き道、黒き道にさとしおこふ。これではわかろまい。あかき道は神の道、一寸わかりかけた道、白き道はせかいなみ、黒き道はわが身のしあん。せかいからつけたとくは、せかいからはおとさん。わが心でおとさぬよふ。」

との事であった。

兵四郎は心の迷いを一掃し道一条に専念した。

兵四郎は勢和県境、高見山を何百回となく越え、一度笠間を出立すれば、短かくて半月、長い時には半年も帰らず、布教中47回も家移りした。

「生壁(なまかべ)の兵四郎」という異名を得た。

明治23年兵四郎48歳の年の3月17日、奈良県城島村外山に城島(しきしま)分教会が設置された。

兵四郎は1,411戸という多数の信者を結成して教会設立に協力した。

明治26年1月28日付けで、三重県渡会郡滝原村大字阿曽里出94番屋敷に城島分教会部属東海支教会設置のお許しを頂き、兵四郎は請われて初代会長に就任した。

明治26年神殿を建築することになり、奥里出に敷地651坪を購入し、28年3月建坪197坪余の神殿が落成した。

明治28年11月24日城島分教会長上村吉三郎が出直し、後任問題が起きた。そのため明治30年11月13日三重県阿曽から奈良県笠間へ家族共引越した。

東海支教会役員、信者92名による城島分教会より分離嘆願書が明治32年2月26日付けで兵四郎のもとへ提出された。

当時城島分教会の再興が着々と進行するさなかであり、東海の分離とはただならぬ事であり、兵四郎の苦悩は筆舌に尽くしがたいものがあった。

その年5月兵四郎は同意せず、家族共々住み慣れた笠間より城島分教会へ住み込んだ。

「道義道徳、義理人情は天保9年10月26日以前に人の通るべき当り前の道。それ以後は神一条の道である。これを一緒にしないように」とは、この時の兵四郎の言葉である。

明治32年5月31日の「おさしづ」により、城島分教会後継問題の伺いがなされ、山田伊八郎が2代会長に定まった。

兵四郎は誠心誠意、城島分教会役員として勤める一方、東海の上にも布教に努め、明治30年代より40年代に11カ所の部内教会が設置された。

ふしぎなたすけが随所に現れた。

教祖直々の教えを身につけ、彼の布教体験から編み出した「九々の諭し」によって、布教に精進した。

明治40年(1907)7月25日、小田伴助に東海支教会の会長を譲り、兵四郎は城島にて専心教信者の仕込みに尽くした。

明治42年東海分教会に昇級した。

兵四郎は大正7年(1918)11月3日76歳で出直した。

その翌年東海分教会は三重県多気郡相可町84番地に移転した。

後年兵四郎は絶えず「道の者は前から頭を下げられるより、後ろから拝まれるような人になれ」と説いたという。氏の信仰の真髄を凝縮した一言であろう。