足達秀治郎 あだちひでじろう

足達秀治郎 あだちひでじろう

現・天理市指柳町82番地、父堀内源垂郎(旧名源右衛門、明治9年4月67歳没)、母シソ(大正7年1月95歳没)の男子4人兄弟の二男として、嘉永2年(1849)生まれで、昭和3年(1928)9月17日79歳没。

庄屋敷村(現・天理市三島町)足達源四郎の長女ケイ(嘉永5年生まれ、昭和12年5月24日85歳没)の婿養子となる。

秀治郎夫妻には、4女1男があり、二女タカ(後名をなか、明治10年9月6日生まれ、昭和37年3月18日86歳没)は中山たまへと同級、隣家のよしみで、教祖(おやさま)より金米糖などをよく貰ったという。

同タカは秀治郎の実家兄源太郎の長男芳蔵(明治12年12月21日生まれ、昭和21年8月17日68歳没)といとこ結婚(明治31年7月7日入籍)。

四女末子は分家し、神具屋を営業(現当主堀内源逸昭和3年2月14日生まれに聞く)。

長男隆之助(明治19年生まれ、昭和44年8月84歳没)は、足達自動車会社を昭和6年5月8日に設立し、経営した。

明治8年9月、天元講を結成し、持ち回りで講勤めをしていたが、一時取りやめとなる。

ところが明治16年春から組織作りをし、秀治郎が初代講元となる。

明治29年、教祖10年祭の頃には40数軒の講社と20数軒の改式者があったが、三島村区長の用務多忙のため講元を辞職。

明治42年4月の天元講人名帳には、周旋方として名前が記されている。

この子隆之助が昭和43年9月に両親のために墓石を建立しているが、両親共に何歳「出直」と記しているのをみると、熱心な信仰者であったことが窺える。