立教187年3月 神殿講話 「神殿普請物語」

神殿普請返済金の完遂記念!
親神様のストーリーの上に、教祖のお導きを幾度となく頂き、この道に引き寄せられてご恩報じにまっしぐらに歩まれた初代会長西村一郎夫妻の神殿普請完遂までの道のり。題して「神殿普請物語」をお届けいたします!

「神殿普請物語」

立教187年3月2日 神殿講話

西村の家は、この道に入信して100年が経過しており、昭和2~3年頃に導かれたと聞かせて頂きます。昭和10年に信仰初代がおさづけの理を拝戴され、15年から神様をお祀りしておりました。そして、神様をお祀りした2年後に天浦分教会が設立されました。

つまり、天浦分教会の設立前から西村家は入信しており、当時は現在の上々級琴緒分教会の信者であったのです。その後、天浦分教会の設立に伴い、昭和17年より西村家も天浦分教会の信者として所属することになりました。

はじめの第一歩~1つ目の転機~

昭和42年、教祖80年祭の翌年に布教所へとなります。これには、年祭活動のお打ち出しと、小学2年生の私(一郎会長様)が小児リウマチによって命の危機へと陥ったことが兼ね合いました。その時は東京オリンピック開催の年で、私が西村家の因縁であるリウマチによって生死を彷徨って苦しんでいたことを覚えております。

教祖80年祭の年祭活動において、天浦分教会は「10カ所の布教所を設立」という心定めをしておられました。そうしたことから、天浦分教会の初代会長木下一夫様より「西村家も布教所になれ」とのお声を頂いていたのです。(当時は八生兵庫(はちしょうひょうご)と呼んでおりました。)

しかし、私の父が親の声を一度断ってしまいました。というのも、当時は西村家が経営する西村商店が株式会社へと変更し、これから高度経済成長の波に乗って勢い良く進んでいた最中のことであったからなのです。当時の天浦は教会を売って新たに普請にかかるというどん底の状態で、西村家は株式会社へと変更し、ビルを建ててお金を借りている状態が重なったのでした。また、その中でも天浦の普請に大きく貢献するお供えをしており、天浦の普請金の約半分ほどを担ったのです。

このような大きなお尽くしの直後に私が大きな身上を頂きました。そして、私が死にかけて苦しむ姿を通して、信仰初代である祖母が「これではいけない。親の声を受けるしかない」と思い直し、多額の理立とともに布教所設立の声を受け、私の命をたすけて下さいました。その時、「この子を神様の御用使っても良いから命だけは助けてください」と願ってくれたと思います。すなわち、私は三宝の上に乗せられ、神様に捧げられたのだと悟っております。

今思えば、私はその時以来、人だすけとご恩報じの路線より他に道はなかったということだったのでしょう。しかし、何も知らない私は一心不乱に勉学に励んで進んでおりました。

教祖90年祭の年に祖母が出直されました。その年、現在の名田分教会会長様の祖父である3代会長様より私の父に「教会になるように」とのお声を頂きました。しかし、再び父は断り、激怒しておりました。そして、大教会から帰る道中、激怒の余りにスピードを出し過ぎ、捕まったことを記憶しております。

このような道中を歩む西村家ですが、ここからが物語の始まりなのです。

奇跡の巡り合わせ

西村家の商売は順調に進んでおりましたが、教祖100年祭が近づく昭和58年頃、なんと私と家内(順子奥様)が出逢うのです。

私は司法試験に落ち続けて苦しんでいるところ、寿美子先生より「日参するように」とのお声を頂き天浦に通っておりました。すると、そこには家内が女子青年としてつとめていたのです。家内は家の因縁に苦しみ、思い切って美容師を辞めて寿美子先生の下で女子青年として仕えており、その時に私たちは出逢ったのです。

それから2年間の時を経て結婚へと進みました。この巡り合わせは、神殿普請に欠かすことが出来ない偉大な布教師となる存在との出逢いであり、そうした素晴らしい者が西村家へと来てくれたのです。親神様の準備が着々と進んでいることが汲み取れます。

(結婚当初の会長様夫妻)

私たちは、教祖100年祭の年に結婚し、その4年後に道一条になりました。神様の御用一筋になってきた頃、商売もいよいよ下がっており、阪神淡路大震災によって土地が更地になったのです。神様がきれいさっぱり払って下さいました。現在、能登地方ではがれきの撤去などに時間が要するみたいですが、私たちの土地は2週間もせずに更地となっておりました。私は、更地になった土地に立ち、夕日に向かって「ここに神殿を建てる!」と叫んだことを昨日のように覚えています。

その後、紆余曲折しながらも、父に神殿を建てることを相談しましたが、父は承諾してくれませんでした。しかし、3年後の平成10年に天浦分教会の木下範三前会長様が「部内の布教所を5カ所教会にし、名田分教会へお供えする」と決められました。なぜなら、当時は名田分教会の創立120周年の旬であり、前大教会長様の名田大教会へと陞級するようにという親の声が出され、それを受けた範三会長様が布教所を教会にするという運びとなられました。その声を受け、八生兵庫を含む5カ所の布教所にお声をかけられ、天浦白宝・北尾白・千喜が速やかに教会になりました。

私たちは父の反対があるため、前会長様より、協力するから自分たちで土地を見つけるようにと言って頂き、本格的に土地探しを始めました。素晴らしい物件はいくつもありましたが、夫婦の意見が合わず、なかなか進まなかったのです。そうしたところ、突然、寿美子先生より「おたすけで成ってくるから土地探しをやめるように」とのお声を頂き、中断することになりました。

2つ目の転機

しばらくの間おたすけに奔走しておりましたが、私が大きな身上(脳いっ血)によって倒れるというふしを頂きました。当時は商売も行き詰まり、土地の半分を売却して借金を返済すると考えられていましたが、前会長様の大きな親心で引き留め、たすけて下さいました。そのタイミングで私が生死をさまよう身上になったのです。しかし、父が私の死にかけの姿を見て廃業の心を定め、八生兵庫の土地をお供えしてくれたのですが、父が決断した瞬間に私の意識が戻るという鮮やかな御守護を見せて頂いたのです。

私は、奇跡的にたすけて頂いた翌年、天浦分教会の創立60周年及び会長様の交代がありました。そして、翌年の平成15年~17年は教祖120年祭でしたが、勇みに勇んだ年祭活動をつとめさせて頂きました。この年祭期間には、豊田大介さんをはじめとする数多のようぼくが引き寄せられました。

親神様・教祖のストーリー

(布教所時代の信者一同)

平成14年には、天浦の会長様に教会設立を目指しての神殿普請の旨を伺いましたが、「これから年祭期間に入るため口に出すことはおろか、思ってもあかん」と、その場で却下されたのです。私は、その場ではたんのうし、悔しさをばねに三年千日を懸命につとめたのです。そして、勇みに勇んだ年祭活動をつとめることができ、意気揚々と再度お伺いしましたが、まだ承諾を頂けませんでした。

私は、自ら進言してはいけないと悟り、「一生天浦でつとめて尽くしきる」と定めたところ、翌日に天浦の会長様より神殿普請のお声を頂いたのです。やはり、こちらの心次第であることを改めて自覚させて頂き、一連の流れを見ると、伏せ込ませてあげたいという親神様・教祖のストーリーによる導きであったことを分からせて頂きました。親神様・教祖には、それぞれの家をたすけるためのストーリーが用意されています。

たすけ・ふしぎふしん

痛めてでも悩めてでも引き寄せる

というお言葉がありますように、私たちはストーリーに逆らうことが出来ないのです。そして、ふしには大きな親心が込められています。すなわち、たすけを行う場所が決まり、多くの人材が引き寄せられるとあります。規模が小さいだけで、ぢばにおけるつとめの完成と一緒です。みなそれぞれ、たすけの場所にならなければいけません。教会になれなくても、布教所や講社として神様を祀り、おたすけした人が集まるというストーリーが用意されています。

みかぐらうたに

ふしぎなふしんをするなれど たれにたのみハかけんでな

みなだん/\とせかいから よりきたことならでけてくる(八下り目二ッ~三ッ)

とありますように、お道の建築はたすけ普請・不思議普請です。世間では、お金を貯めて頭金を作り、ローンを組んで建設にかかり、自分の力で何とかしようと頑張ります。しかし、お道の普請はたすけ普請・不思議普請ですから、普請を通して多くの人が集まり、たすかって頂くのです。そして、名実ともに一昨日普請が完成致しましたが、その間にどれほどの方がこの道に引き寄せられ、どれだけの家がたすけて頂いたのか。しみじみと感じている次第であります。

YouTubeに神殿普請記念動画をアップロード致しました!ご覧いただければ幸いです。

https://www.youtube.com/watch?feature=shared&v=E4pn0QecJeA