矢追楢蔵 やおいならぞう
明治2年(1869)9月28日、伊豆七条村(現、奈良県大和郡山市伊豆七条町)に、父惣五郎、母なかの長男として生まれた。
入信は明治10年である。
楢蔵9歳のとき、近所の佐保川で遊んでいたところ、男性器を蛭にかまれて、2、3日経つとたいそう腫れた。
伊豆七条村は、はやくから全村に教えが伝わっていたが、楢蔵が入信した頃は、信仰が下火になっており、むしろ教えに反対したり、嘲笑するものが多かった。
楢蔵の父惣五郎も信仰するのを笑っていた。
しかし、同村の喜多治郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キクとは、熱心に信仰していて、楢蔵の祖母ことに信仰をすすめた。
ことはすぐ、その気になったが、惣五郎は反対であった。
祖母ことに連れられて、楢蔵がはじめて「おぢば」に帰った。
教祖(おやさま)にお目にかかって、患っているところをご覧いただくと、教祖は
「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで。」
と仰せられた。
以来祖母ことと母なかが交替で楢蔵を連れて、おぢばに参拝したが、平癒しなかった。
明治11年3月中旬、こととともに参拝したおり
「男の子は、父親付きで。」
と聞かされ、楢蔵は父とともにおぢばに帰った。
その翌々日、身上(みじょう、病)はすっきり全快した。
こうして、一家をあげて信仰し始めるようになった(『稿本天理教教祖伝逸話篇』57話「男の子は、父親付きで」)。
楢蔵は、毎晩桝井伊三郎宅に通い、親神の話を聞いた。
10歳のとき「てをどり(ておどり)」を学び、明治16年の夏15歳のとき、辻忠作、桝井伊三郎らとともに詰所で勤められた雨乞づとめに参加したり、18年春から近村で、てをどりの手を教えたりした。
明治21年7月20日教導職試補、11月2日「おさづけの理」を拝戴した。
教祖が現身(うつしみ)きかくされた後、遠国布教がさかんに行われ、明治26年楢藏もそれを志して、九州や信州方面に3度も赴いている。
しかし、なかなかその成果が拳がらなかった。
翌明治27年は、近在の布教に力を入れ、28年再び熊本県に足を伸ばし、2年後に3名を連れておぢばに帰った。
こうして治道大教会の道が九州に伸びたのである。
これより先、明治26年4月13日、檜蔵は喜多治郎吉に代わって、誠心講長に就任。
治道布教事務取扱所を設置した。
明治29年6月2日支教会に昇格、治道村伊豆七条11番屋敷から同村西垣内に移転した。
楢蔵はその改築工事を留守方に任せて、再度熊本へ。
こうして近在はもとより、大阪・九州方面に道が伸び、明治33年になると近県にも信者が増加した。
明治38年、髙知部内三嶋支教会の三浦ミチと結婚。
同40年3月21日長男富夫誕生。
明治42年1月28日には、分教会に昇格した。
大正7年(1918)11月10日、妻ミチが3男4女を残して出直した(39歳)。
これを契機として教会昇椿、移転および詰所改築の議が持ち上がり、翌大正8年1月30日教会に昇格。
このとき部内教会41カ所で、教会は隆盛になり、大正9年、帯解に教会を移転新築した。
大正10年には倍加運動が提唱され、楢蔵は東奔西走し、その結果、31カ所の教会を新設し、大正14年には部内教会75カ所となり、同年4月に肥長分教会が分離した。
昭和2年(1927)教規改正に伴い、治道中教会と改称した。
楢蔵ははどなく昭和4年7月21日、出直した(61歳)。