中山たまへ なかやまたまへ
明治10年(1877)2月5日、中山秀司、まつゑのただ一人の子として生まれる。
教祖(おやさま)の孫。
秀司の子おしゅうが、明治3年3月15日に出直した(ふ1:60,61)。
このおしゅうは、人間創造に関わる魂の「いんねん」の深い方であるところから、親神はその魂を抱きしめて(ふ3:109,110)、時旬の来るのを待って秀司、まつゑの子として宿し込まれた。
そのことを「おふでさき」に記し(ふ7:65-73)、
またさきのみちのよふだいたん/\と よろづの事をみなといてをく
なわたまへはやくみたいとをもうなら 月日をしへるてゑをしいかり(ふ7:71-72)
と名前までつけて予告された。
かくて、たまへの誕生となる。
明治14年父を、翌年母を亡くし、以後、教祖によって育てられる。
教祖はしばしば
「この者が大きくなれば、道の支配をさす」
と言われたという。
明治14年、教祖が拵えたおつとめの着物の紋章は、たまへの手を通じて側近の人々に渡された。
明治20年、教祖が現身を隠された時、中山家に残された只一人の人であった。
明治23年12月7日、初代真柱中山眞之亮と結婚。玉千代、正善の1男1女をもうける。
大正3年(1914)12月31日、38歳で夫(眞之亮)が出直し、以後「御母堂様」と呼ばれた。
生来聡明で、記憶力・判断力に優れ、初代真柱夫人、2代真柱母堂として教会設立以後の天理教の発展に力を尽くした。
また、気丈で愛情深く、質素でしかも行動力に富んだ人柄で、一心に親神の思召に沿った生き方は「道の母親」として慕われた。
特に「おさしづ」で示された婦人会創立に向けて、本部では毎月23日に婦人の集まりを持ち、話し方の指導をしたり、相互に批評をしあい、また、地方の婦人の集まりにも心を砕いた。
明治43年1月28日これらを統一して、天理教婦人会を創設し、初代会長を務めた。
婦人会の役員には、「男松女松のへだてない、と神様が仰せ下されたからには、女やからといって何時までも男にぶら下がっているようではならん。夫の光によって光っているようでは、夫がいなくなれば光らんやろう。自分で光を出さねばならん。」と語り、女性の自立を促し、各地を積極的に巡教した。
また、『天理時報』に婦人会関係の記事を書き、婦人会総会のあとに毎年『婦人会の莱』(婦人会の新聞)を発行するなど、文書活動にも強い関心を示した。
昭和8年(1933)頃からは、これを会員に任せ、指導した。
後、機関誌『みちのだい』に発展する。
婦人会の創設に続き、天理女学校、天理女子学院の設立と、女子教育に力を注ぎ、封建制の男女差別の未だ色濃く残っていた時代に「めまつをまつわゆハんでな」(ふ7:21)、「男女言わん。男女区別無い」(さ21・3・27)との教えに基づいて、女性の重要な役割を明らかにすると共に実践した。
また技術習得の場所として洗濯場、裁縫場、タイプライターの設備等も揃えた。
さらに、幼児教育と働く女性および別席や修養がこころおきなくできるために幼稚園、託児所を設立、家庭に恵まれない子供たちを預かる養徳院の経営と、女性の立場からきめ細やかな配慮をなし、今日の天理教団の基礎を築いた。
教祖の名代として、大正7年(1918)7月11日より20年にわたり「おさづけ」の理の運びを行った。
また、大正14年4月30日天理教教庁幹事長、8月26日天理教教庁総務部長、天理教教会本部教監に就き、名実共に天理教を支えてきた中心的存在であった。
昭和13年、風邪気味で静養していたが、7月5日肺炎となり、10日62歳で出直した。