天理教人名辞典 寺田半兵衛 てらだはんべえ

寺田半兵衛 てらだはんべえ

寺田半兵衛は、天保8年(1837)1月10日、大阪で唐物商を営む堺屋五郎兵衛の長男として生まれた。幼名を仙蔵という。

幼少の頃より書物を好み、成長するにつれ益々学問に没頭する姿を見て、15歳のとき、京都の某禅寺へ養子として送り出された。

仙蔵は、熱心に禅学を学んだが、養父である住職の死亡により、19歳のとき、志半ばにして、大阪に帰ってきた。

その後、医者の書生をして過ごしていたが、文久2年(1862)11月、緑あって、京都山科で有名な目薬を商っていた寺田半右衛門親応の息女まつと結婚、婿養子となった。

後、家督相続をして、名を半兵衛と改めた。

半兵衛は、明治7年(1874)に大阪に転住、北区網島町の自宅の一部を改築して工場とし、メリヤス製造業を始めた。

事業は順調に進展したが、そのなかで気がかりとなっていたのは、長男城之助(1867-1890)のことであった。

明治13年4月、城之助は、労咳と診断され、気の向くまま、物見遊山に気を紛らせて過ごしていた。

明治16年春、長女たきも産後の患いで悩んでいたので、勧められて、たきは、城之助と泉田藤吉を訪ねた。

城之助は、泉田の教理の取り次ぎに真にたすけて頂ける神様であるとの信念を固めた。城之助20歳の時である。

5月になると、二男卯之助が5歳で急に出直し、半兵衛も自ら泉田を訪ねて入信した。

その時、半兵衛は、即座に心定めをして、城之助を神様の御用に使って頂くこと、また城之助の食費および衣類その他の費用は、全部半兵衛が用立てることを誓い、城之助とともに、神様の御用をつとめることを決心した。半兵衛が44歳の働き盛りのときであった。

半兵衛、城之助はともに布教活動に専念する一方、おぢばへの帰参は片時も忘れてはいなかった。

おぢばと大阪とは、当時はまだ交通も不便であったが、半兵衛は、度々おぢばへ帰り、教祖(おやさま)にお目通りのお許しを頂いた。

明治21年、東京に天理教会本部の設置が公認され、7月に、おぢばに教会本部が移されることになったとき、つとめ場所の増築と周辺の整備のふしんが始められた。

この頃、城之助はおやしきでふしんの費用に充てる資金繰りに大変困窮されている話を聞き、急いで大阪に帰り、半兵衛に事情を話し、相談した。

半兵衛は、なんとしてでもお役に立たせて頂きたいと、大阪の信者に依頼し、千円の工面をし、勇んでおぢばに帰ってきたという。

明治21年7月3日、半兵衛は、「おさしづ」によって、「神水のさづけ」を頂戴した。

この「水のさづけ」により、後に講社を新しく結成したとき、講名を天水組と称するようになったという。

明治21年10月、城之助は、上田ナラトメと結婚、これからの働きを期待されていたが、明治23年9月、一子国太郎を残して、27歳で出直した。

城之助の出直しにより、父の半兵衛は大いにさとり、直ちに天水組の講長となり、さらに布教に力を入れた。

明治24年10月21日、「さあへ尋ね出る処、淋ぶしい心に持たず、小さい事は心に持たず、尋ねる願う事情許そ。」(さ24・10・21)との、「おさしづ」により天水組講社分教会設置のお許しを頂いた。

ここに網島分教会は設立され、半兵衛は、初代会長に就任する。

明治28年10月、教会のふしんにかかっていた半兵衛を本部へ寄せるよう「おさしづ」があり、明治31年には本部員のお許しを頂いた。

明治40年3月29日、68歳で出直した。