山本利八 やまもとりはち
山本利八は、文政2年(1819)11月3日、河内国柏原村(現、大阪府柏原市)において生まれたが、父母の名は不明。
幼名は利平。
家は代々農業、兼て綿商を大きく営んでいたようである。
明治3年(1870)夏、利八の息子利三郎(21歳)が、村相撲を取って胸を打ち、痛の床に臥した。
医者にもかかり、あちこちで拝んでもらっても少しもよくならない。
それどころか、命旦夕に迫って来た。
明治6年夏、利八ににをい(におい)がかかり、初めてお屋敷へ参拝すると、教祖(おやさま)から、
「この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれた故郷や。どんな病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの来るのを、今日か明日かと待ってたのやで。」
と、結構なお言葉を頂いたのである。
そして、息子利三郎の切望もあり、死を覚悟して戸板にてのせてお屋敷に運んだのである。
教祖は、
「案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず政かるのや。」
と仰せられ、温かい親心により、瀕死の利三郎は6日目におたすけ頂いたのである。
山本利八、利三郎父子の信仰はこうして始まった(『稿本天理教教祖伝』109頁、及び『稿本天理教教祖伝逸話篇』52-55頁)。
その後の利八の消息は詳らかではないが、本部詰所に勤務していたのであろうか、「本部詰所の生き字引」といわれていたようである。
明治12年(1879)6月頃、増井りんを教祖のお守役とする相談に、利八も参加しているが、「取次人」であったのか、または「おさしづ」の書き手であったのかもしれない(『稿本天理教教祖伝逸話篇』114頁、さ26・10・10)。
いずれにせよ、利八は、おとなしく、真面目で、コツコツと働くタイプであったようである。
さらに、生涯チョンマゲを切らなかったせいか、時々本席と間違われたこともあったという(『稿本天理教教祖伝逸話篇』262頁)。
明治37年5月4日出直し。86歳。
なにかの身上であったらしい(さ37・3・26)。
なお、利八の妻⊥星は、文政4年(1821)に誕生し、明治29年(1896)に出直している。76歳。