土佐卯之助 とさうのすけ
撫養大教会初代会長。
明治11年(1878)心臓脚気にかかり、あちこちの医者の診断を受け、あるいは祈帝等、これという限りを尽くしたが病状は次第に悪化し、遂には医者からも見離され、当時、日本一といわれた名医に診てもらうため、大阪北浜の医院の門を叩いた。
ところが、既に手遅れとの宣告を受けて途方にくれているとき、宿泊していた大阪三軒家の船宿の内田禰助、タキ夫婦からお道(天理教)の話を聞くようすすめられた。
講元の博多藤次郎から順々と話を聞き、加えて、講元、周旋達による真剣な三日三夜のお願いづとめによって、この難病が鮮やかに平癒した。これが入信のいきさつである。
卯之助は、安政2年(1855)6月15日、山口県佐波郡向島村(現、山口県防府市向島)にて、父白井滝蔵、母キウの二男として生まれた。
卯之助10歳の時、父滝蔵は出直し、その頃から母を助けて魚屋の稼業に精を出した。
13歳の時に家計を助けるために、中ノ開港にある山本廻船問屋に炊夫(かしき)としてつ
とめた。
17歳になったとき、早くも一人前の船員として北前船に乗り込むようになった。
明治11年の春、卯之助は徳島県板野郡岡崎村の土佐新平の養女まさの婿養子となる。
この時、卯之助は24歳、まさは19歳であった。
この結婚を期に山西回漕店の観音丸に乗ることになった。
心臓脚気が発病したのは、この観音丸に乗って一航海を終えて大阪に着いた秋のことであった。
明治12年秋、たすけて頂いた喜びから、真心組周施の吉岡貞二郎と、初めておぢばに帰り、「救けて頂いたお礼に燈龍でも鳥居でも奉納したい」と申し出たところ、山澤良治郎から「鳥居など何もいらん。救けて頂いた恩を返したければ人を救けよ」と言われた。
この一言に胸をうたれた卯之助は、生涯を報恩に捧げることを決意する。
そして博多藤次郎、森田清蔵などから教えを乞い、さらに信仰を深めていった。
明治13年初夏の北海道航路では、碇泊地の塩屋を中心に、余市や仁木方面にまで布教をした。
しかしこの地で卯之助は痛飲(りゅういん)の病となり、七転八倒の苦しみの中、22ヵ条の誓いを立てて、みごとに御守護を頂いた。
この身上思いを通して、さらに熱心となり、仕事の合間ではあったが、徳島県下を東奔西走する。
明治14年春頃には「阿波真心組」の講名のもとに、16名の人を伴って、おぢばへ初団参をした。
そして、この年の北海道行きで、副船頭として乗船した宝生丸が奥尻島で遭難するところを不思議にもたすけられた。
ちょうどこの時、おぢばでは教祖(おやさま)がお居間の北の窓を明けられ、日の丸の扇をパッと開かれ、「オーィ、オーイ」と何度となくお招き下されていたという(『稿本天理教教祖伝逸話篇』88話)。
この大節から卯之助は船乗りを廃業して、神一条の道を歩むことを固く心に誓った。
明治15年春には、一家の生計を支えていた卯之助の布教専従は、家系を圧迫し、義父母の猛烈な反対に合い、とさっけと絶縁の形で単身大阪で出、布教生活をはじめた。
ところが、ある時、おぢばで草取りをしていたところ、教祖から「早よう大阪へおかえり。大阪では婚礼があるから」と仰せられ、不思議に思いながらも帰ってみると、妻のまさが訪ねてきていた。
教祖の言葉の神意を悟った卯之助は、あらためてまさと縁を結び、撫養へ帰った。
駄菓子屋、蒸風呂の営業などで生計をたてながら、布教を展開していった。
明治16年頃のことである。
明治17年には、阿波国一円に60余の講元・周施のもと1,000戸の信者が出来たが、警察の干渉、弾圧が激しく、全県下の信者が一挙に検挙されるという事件もおきた。
こうした中も卯之助は、おぢばがえりを欠かさず、ぢばに心を繋いだ。
ある時、教祖はおそばの人に、「明日は阿波から17人の子供が帰ってくる」と嬉しそうに仰せになった。
ところが何日たっても帰ってこない。
10数日が経ったころ、阿波から17名の人が帰ってきた。
驚いた人が話を聞いてみると、ちょうどお言葉のあった日に出帆したが、悪天候で10数日も遅れた、とのことであった(『稿本天理教教祖伝逸話篇』175話)。
そして今更のように驚き、感激した。
その時、教祖から赤衣をいただき、有難さに感泣した。
こうした中、警察の迫害、干渉は激しさを増し、明治18年秋、卯之助一人を残して、講元、信者のことごとくが、神道修成派に加入した。
19年春には、修成派に属することは無意味であり、何よりもおぢば、教祖のことを思えば、できうる話ではなかったが、阿波1.000戸の信者のことを考えれば、と断腸の思いで、卯之助は修成派の天理部を設置し、部長となった。
このことは県下の信者を結集し離散を防ぐ効果はあったが、おぢばにあって、大きな衝撃を与えた。
「土佐は謀叛人や、山師や」と思われるもととなった。
ただ卯之助は、こんな中にあっても、ますますその信仰に拍車をかけた。
明治20年の教祖現身を隠された時には、その葬儀の葬列に加えてもらえず、一人淋しく離れて畦道からお供をする卯之助であった。
こうした姿をみた信者たちは、自分たちのした誤ちを深く悔い、修成派ともきっぱり絶縁することになる。
この間、卯之助は再三、おさづけの理拝戴を願い出るが、許されず、修成派とも絶縁した明治21年8月28日、6回目の願い出で、お許しをいただいた。
卯之助は、どんな不利な事態にあっても、決して弁解をしない、それが故に誤解を招くこともあったが、たんのう一筋の人であり、誠真実の人であった。
明治22年8月26日、撫養支教会設立。
明治33年2月27日、撫養分教会長辞任。同年7月5日、本部員に登用される。
同年12月12日、2代会長出直しに付き、撫養分教会長事務取扱となる(明治44年9月25
日まで)。
昭和3年(1928)8月6日出直し。74歳。