中臺勘蔵 なかだいかんぞう
天保11年(1840)11月15日、江戸日本橋に父中臺勘蔵、母たかの長男(幼名国太郎)として生まれ、安政6年安房国天津出身の丸山はなと結婚したが、明治4年(1871)話し合いにより、一子平次郎を残して、はなと離婚。
翌5年12月平田さだと再婚した。
父の勘蔵は天保の中頃、下総国千葉郡幕張より江戸に出て魚貝商から魚問屋を手広く営んでいた。
長男国太郎の生まれる頃には、押しも押されぬ地歩をかため、木村屋勘蔵の名は、江戸魚河岸はもとより、中山道筋の得意先仲間でも、抜きん出た商法で、広く知られていた。
明治4年、父勘蔵の出直しによって、2代目の勘蔵として、木村屋を継いだ。
次から次へと新機軸で商域を拡大、江戸での卸商では共倒れと見た勘蔵は、地方への進出を企て、年ごとに得意先を増加させ、いやがうえにも木村屋の名は、各地にひろがっていった。
こうして中臺家の財は蓄えられたが、この財のほとんどは、後年、入信するに及んで、教会本部の東京設置その他の費用に役立つことになる。
勘蔵は生まれつき、あまり健康に恵まれず、虚弱体質であった。
そのため、手足のしびれる悪性の神経痛と周期的に激痛のする慢性胃腸病という持病があり、そのため金にあかして名医を求め良薬をさがし、人から勧められる治療をすべて試みるが、それは一時的な気休め程度だった。
しかし、持病は確実に進行していた。
明治19年秋、勘蔵に異常な激痛が襲った。
足と腰のしびれは、いつもと違っていた。
そこで以前より親しく付き合っていた人が、娘の病を天理さんの神様からご利益をもらったことを思い出し、東京・北豊島郡竜泉寺村を訪れ、上原佐助からおたすけをうけ、帰る頃には、今までの苦痛は、ほとんどなくなっていた。
ときに勘蔵46歳、この道の信仰を始めることになるのである。
勘蔵には14歳も離れた実弟庄之助がいた。
庄之助は兄の勘蔵とともに家業に励んでいたが、明治13年庄之助は兄と分かれ、京橋区五郎兵衛町で海産物を営んでいたが、明治20年1月、原因不明の高熱におそわれた。
兄勘蔵に連れられ上原佐助を訪れておたすけを願い、神の話を開きわけて入信した。
同じ1月、勘蔵夫婦は商売を嗣子平次郎らにまかせ、日本橋区平松町の隠居所に移り、そこに神を面巳って、布教の第一歩を踏み出した。
明治20年8月8日日本橋区西河岸の梅原房次郎宅で東京真明粗目京講杜が結成されるにともない、勘蔵は講脇ならびに会計の役割を担当する。
明治21年7月4日勘蔵は下谷区北稲荷町の土地と建物(市街宅地486坪3勺、地価72円17銭5厘、木造瓦茸平家19坪2合5勺)を1.550円で買い入れて、本部に献納した。
明治21年7月23日勘蔵ら計8名が初めておぢばに参拝、8月3日勘蔵はおきづけの理を拝戴した。
明治22年8月1日、従来の目京講社を分けて、日本橋講杜と京橋講社に分割(日京とは当時の行政区画の日本橋区と京橋区の各1字を取って命名したものである)、勘蔵は推されて講元となる。
記録によれば、講社は114名であったといわれる。
こうして、これまで個人祀りとして祀られていた平松町の中臺隠居宅の神を、本小田原町20番地の中臺家の本宅2階に祀った。
神のめどうとして御幣を立て、その前に三方を置き、その上にお供物と神水を供えていた。
灯明は四六時中灯されていたという。
なお、中臺宅では毎晩参拝者一同と共に、病人の名と年齢を唱えてお願いづとめをした。
神前には「めぐみ箱」と記した奉賛箱があり、時には10円、5円が供えられてあったという。
当時の10円は米にして約2石弱、醤油では1升瓶約100本、清酒で60本だった。
明治22年12月28日東分教会部属日本橋支教会を日本橋区小田原町の中臺本宅に設置するおゆるしをいただく。
勘蔵は初代会長に推され、あわせて東分教会理事兼会計を兼務することになる。
明治24年3月6日教祖5年祭参拝のため、勘蔵ほか役員信者などとともに帰参した。
24年4月5日本席一行が、東分教会にお入り込みになった。
このとき、勘蔵ほか役員一同は、教会本部の土地建物献納の一件に対し、本席より言葉をいただく。
なお本席が帰和するに際して、勘蔵は随行した。
明治25年12月13日教祖墓地改葬につき、勘蔵ほか役員信者多数帰参、お墓地構築費として1千円、お墓地参道の榊と生花一対をお供えした。
明治26年8月の月次祭のあと、勘蔵より神殿建築の議を発表、ほどなく勘蔵4千円、吉田利助・加藤文右衛門各2千円、白鳥とく1千円を拠出(後年神殿竣工の費用8万3千円であったから、この時すでに1割が集まったことになる)。
明治27年2月17日日本橋支教会は東分教会より分離して、本部直轄日本橋分教会に昇格。
同年6月、本部より相談を受け神道本局のため麻布区算町138番地の土地980坪2合2勺を日本橋分教会から本部に献納。
同月神道本局深川区門前仲町の丸山教会深川支部の建物を中臺名儀で買い求める。
同年8月頃より脚気に確り、心臓衰弱で呼吸困難となった。
9月半ばからは病状激しく、明治27年9月26日出直した。55歳