天理教人名辞典 島村国治郎 しまむらくにじろう

島村国治郎 しまむらくにじろう

明治19年(1866)奈良県添上郡轢本村(現、天理市轢本町)に、父梶本松治郎、母ウノの二男として出生。

初代真柱の甥。本部員、鍛冶惣分教会初代会長梶本宗太郎の実弟。

小学校、天理教校と初代真柱の膝許から通学。明治37年卒業後、本部青年として真柱邸に勤めた。

明治40年4月22日、こうずいのさづけ(さずけ)拝戴。

明治41年12月、初代真柱より「一真講」の名をいただき東京市下谷区神吉町にて単独布教を始める。

明治43年、高知大教会への養子縁組の話がおこり、高知初代会長身上の関係もあり、同年12月31日、急遽島村家の人となった。

明治44年4月29日、高知大教会2代会長に就任。

高知は初代会長島村菊太郎に導かれた人ばかりで、教会の様子も分からず困惑したが、初代真柱から、「わたしは千べん泣いた。お前も百ペん泣く位がんばれ。」と激励の言葉を受け、心機一転多忙な教務に邁進した。

大正3年(1914)9月、高知の青年を引率し、東京布教へ出した。すぐに実を結ばなかったが、後年芽を出し教会が設立されている。

大正8年、高知大教会他数カ所の教会が教会本部から事務停止の処分を受けた。10年間の教費滞納がその理由であった。島村国治郎は部内の疲弊を見て、自分一人が悪者になれば済むと考えたのであったが、この処分で自らの誤りを悟り、以後ぢば一条の信仰を歩んだ。

大正14年4月23日本部員登用。

昭和普請では用材の7割を高知から御供えした。

昭和31年本部常結。同35年12月31日出直す(74歳)。