天理教人名辞典 諸井国三郎 もろいくにさぶろう

諸井国三郎 もろいくにさぶろう

諸井国三郎は、天保11年(1840)7月20日、現、静岡県袋井市の下貫名で、父十郎兵衛、母モンの三男として生まれた。

幼名を竜蔵といい後、国三郎と改名、人々より聡い子といわれるが、農事を嫌い16歳の時侍奉公を志し、江戸へ出て仕官、明治維新を生き抜き、明治6年(1873)、産業を興し新しい日本に貢献しようと決意して郷里に帰り、養蚕と製糸と機業を手広く営んだ。

明治15年10月、八王子へ商用に行った番頭が帰り道に広島県出身の出稼人、吉本八十次を連れてきた。

吉本は至って正直で桑畑でもよく働き、2カ月程して、織物の女性教師が歯痛で二日二晩苦しむのを見て「今、月日様へ御詫びをして来たから、これをお上りなさい。」と茶碗に水を一杯持ってきて差し出した。

それを飲んだこの女性は急に睦気を催して床につき、翌朝にはけろりと治っていた。

国三郎は不思議に思い、吉本にどういう信心かを尋ね、はじめて親神の教えにふれた。

国三郎は深く感じるところがあったが、事業を営んでいるため直ぐ信心するわけにいかず、村の病人宅へ吉本を出向かせた。

吉本は難病人を7、8人をたすけたが、毎年おぢばで正月の餅をつくことになっているからと、明治16年1月20日におぢばへ帰った。

その後、三女の甲子が咽喉気(のどけ)で危篤状態となり、国三郎の妻そのは吉本より聞いた信心をしようと国三郎に熱願し、3時間の談じ合いの末二人は、一切の人間思案を捨てて、「南無天理王命、これから一心に信心致しますから、どうか2歳の女子の咽喉気をたすけ給え」といって願うと、甲子はその夜の内に乳を飲みだした。

早速、国三郎はおぢばへ帰り、教祖(おやさま)にお礼を申し上げた。

帰郷後、国三郎が講元となって「天輪講」が結ばれ、その後、加入者が増え「遠江真明講」と改称された。

信仰しはじめてから、国三郎は本部での角目角目の相談にはいつも加わっていたが、教祖が現身をかくされた時は一旦国へ帰り、講社廻りをしていたため葬儀にも参列できなかった。

国三郎はこれを「己には不孝の因縁がある」と、どこまでもお道(天理教)のために働かせて頂かねばと決心をかためた。

その後、埼玉のおたすけにおいても10日間で26カ村、560人、60戸の講社を結ぶ勢いでまわり、明治22年に山名分教会を設立。

明治26年には遠国といわれていた東北各県へ手分けして布教した。

また明治30年56歳で台湾布教の陣頭に立ち、中国の度門にまで道が広がった。

国三郎は晩年、娘のおろくが生後10月でいただいた小児の御水のおさづけ(さずけ)と、御かぐらの道具をお許しいただいたこと(明治17年)と、教会番号の無いことが山名の三大特色と語っていた。

諸井国三郎はおぢばにおいて本部員として働き、大正7年(1918)6月22日、79歳で出直した。