善助(今村善助) ぜんすけ(いまむらぜんすけ)
元治元年(1864)12月、教祖から「黒骨の扇」を頂いた信者。
『稿本天理教教祖伝』によれば、同年12月26日には、辻忠作ほか、数名の者がさづけを頂いた。
この時、教祖から「前栽、喜三郎、平骨の扇渡す。これ神と思うて大切に祀れ。」「同、善助、黒骨の扇渡す。」(47-48頁)と記されている。
なお、辻忠作が初代真柱に宛て提出した手記本「ひながた」(明治31年、『復元』第31号所収)によると、「冊三年前(筆者註、明治31年より逆算すると慶応2年に当たる)正月四日より忠作参りかけました。今年十二月廿六日神様御さずけにはせんざい喜三郎平骨の扇渡す、同善助黒骨の扇わたす」「三十二年以前(筆者註、慶応3年に当たる)十二下りおうたおつけになり 同人月頃迄にみな/\おつけになりました。儀三郎、忠作、幸右ヱ門、喜三郎、善介、三島嘉一郎、六人の者へおしゑて被下ました」(29-30頁)とある。
善助(善介)は黒骨の扇(柄の部分が黒塗りの扇)を頂いただけでなく、お手振りを教わった初稽古人の一人であるということである。
なお、うたと手振りについて、定説では、十二下りは慶応3年正月から8月までに地歌を作られ、満3カ年かかって節付けと振付けをなされたとなっている。
辻手記本には、十二下りのうたを同年8月頃迄に骨教えられた、と記している。
なお、豊田村辻家文書の中の「稿本」には「三十二年以前、正月早々より、十二下りを御つけになり、前の三下り御つけなされ、あと八月頃までにみなおつけになりました。春より、豊田儀三郎御手ふり、忠作御手歌、両方、前栽幸右衛門歌、喜三郎のふしをつけ、又手ふり、前栽善助御手ふり、三島嘉一郎手おどり、都合六人稽古致しました」(「辻忠作手記本教祖様御伝について」中山正善『復元』第7号、20頁)と、その役割が書いてある。
この部分は『本部員講話集』(中巻)所収の辻忠作「ひながた」とほぼ同様である。
『復元』第7号に解説文があり、人名と役割をあげて「お手振 前栽村 善助(今村)」と註記されている(20-21頁)。
善助は今村善助という姓名であるらしい。