石崎正基 いしぎきまさもと
生没年不詳。
明治18年(1885)、教会設立の準備に携わっていた。
明治18年8月に作られた盟約証にも同盟員として名がある。
そのころ藤村成勝・村上・高井猶吉と共に宇陀郡伊谷を始め式上・山辺・添上郡を「改良一件」のためまわっている。
改良とは、転輪王講社時代の雰囲気をなくし、教会設置のための教義・儀礼の整備のことであろう。
また、大神教会との連絡係であったようだ。
「稿本天理教教祖伝」280頁には、明治18年10月8日の創立事務所での会議の後、中山眞之亮や清水輿之助、増野正兵衛らと意見が合わず、その日の内に逃亡したと記されている。
ただし、「天
理教会拍帳第一号」(F復元』第47号所収)によれば、同日「三輪二而石崎正基へ小便二相渡し」として1円が渡され、8月12日にも石崎・鴻田の車賃も支払われている。
11月11日に、寸田・石崎両名が本国に帰国するにつき旅費として15円を渡している。
また、明治19年2月7日にも大神教会へ納める義納金を藤村成勝から預かっているので、実際の関係は続いていたようである。
詳しい人物像は不明。