第六章 てびき 天理教教典

人は皆、苦しみを厭い、楽しみを求め、悩みを避け、喜びを望む。

親神が、陽気ぐらしをさせたいとの思召で、人間世界を造られたからである。

しかるに、世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。

それは、親神を知らず、その深い親心を知らないからである。

親神は、一れつ人間の親におわす。

しかるに、人は、この真実を知らず、従つて、互にひとしく親神を親と仰ぐ兄弟姉妹であることも知らずに、銘々が勝手に生きているように思いあやまり、われさえよくばの我 が身思案や、気ままな行をして、他の人々の心を傷つけ曇らし、世の親和を害ない紊しているばかりでなく、それがために、己れ自らの心をも傷つけ曇らせていることを気附かずにいる。

月日にハたん/\みへるみちすぢに
こわきあふなきみちがあるので   七  7

月日よりそのみちはやくしらそふと
をもてしんバいしているとこそ   七  8

親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。

なにゝてもやまいいたみハさらになし
神のせきこみてびきなるそや    二  7

せかいぢうとこがあしきやいたみしよ
神のみちをせてびきしらすに    二 22

即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。

しかるに、親神の深い心を知らぬ人々は、ただ眼前の苦しみや悩みに心を奪われて、ややもすれば、あさはかな人間思案から、人を怨み、天を呪い、世をはかなみ、或は理想を彼岸に求めたりする。

にんけんもこ共かわいであろをがな
それをふもをてしやんしてくれ   一四 34

にち/\にをやのしやんとゆうものわ
たすけるもよふばかりをもてる   一四 35

一れつのこどもハかわいばかりなり
とこにへたてわさらになけれど   一五 69

しかときけ心ちがゑばせひがない
そこでだん/\ていりするのや   一五 70

親神は、これらの人々に、隔てない切々の親心を明かし、人間の我が子を慈しむ親心に照して、よく思案をするがよいと、いとも懇に教えられている。

およそ、人の親にして、我が子を愛しないものはない。

子の行末を思えばこそ、時には、やむなく厳しい意見もする。

この切ない親心がわかれば、厳しいうちにも慈しみ深い親神の心尽しの程がくみとられて、有難さが身にしみる。

ここに、かたくなな心は開かれ、親神の温かい光を浴びて、心はよみがえる。

そして、ひたすら、篤い親心に添いきる心が定る。

かくて、真実に心が定れば、親神は、すぐとその心を受け取り、どんな自由自在の 理も見せられる。

親神は、それを待ちわびておられる。

しんぢつに心さだめてねがうなら
ちうよぢざいにいまのまあにも   七 43

いまゝでハとんな心でいたるとも
いちやのまにも心いれかゑ     一七 14

しんぢつに心すきやかいれかゑば
それも月日がすぐにうけとる    一七 15

しかし、人間心のはかなさは、折角、てびきを頂いて、心を定めても、 時がたてば、一旦定めた心もいつのまにか動いて、形ばかりの信心におち、知らず識らずのうちに、又もや、親心に反する心を遣うたり、行をしたりして、しかも、気附かずにいる場合が多い。

神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。

なれど、一日経つ、 十日経つ、三十日経てば、ころつと忘れて了う。

おさしづ(明治三一・五・九) 

と示されている所以である。

故に、

日が経てば、その場の心が弛んで来るから、何度の理に知らさにゃな らん。

おさしづ(明治二三・七・七)

と仰せられ、ともすれば弛みがちな心をはげまして、なおも心の成人を促される上から、信心するうちにも、幾度となく、身上や事情の上に、しるしを見せ、心を入れ替える節を与えられる。

この篤い親心を悟つて、 益々心を引きしめて通つてこそ、生涯変らぬ陽気づくめの理を見せて頂ける。

かくて、教の理が胸に治り、心が次第に成人するにつれて、大難は小難に、小難は無難に導かれる親心が、しみじみと感じられて、今まで喜べなかつたことも、心から喜べるようになり、今まで楽しめなかつたことも、心から楽しめるようになる。

陽気づくめの境地への力強い足どりが、こうして進められてゆく。

しやんして心さためてついてこい
すゑハたのもしみちがあるぞや   五 24