人は皆、苦しみを厭い、楽しみを求め、悩みを避け、喜びを望む。
親神が、陽気ぐらしをさせたいとの思召で、人間世界を造られたからである。
しかるに、世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。
それは、親神を知らず、その深い親心を知らないからである。
親神は、一れつ人間の親におわす。
しかるに、人は、この真実を知らず、従つて、互にひとしく親神を親と仰ぐ兄弟姉妹であることも知らずに、銘々が勝手に生きているように思いあやまり、われさえよくばの我 が身思案や、気ままな行をして、他の人々の心を傷つけ曇らし、世の親和を害ない紊しているばかりでなく、それがために、己れ自らの心をも傷つけ曇らせていることを気附かずにいる。
月日にハたん/\みへるみちすぢに
こわきあふなきみちがあるので 七 7
月日よりそのみちはやくしらそふと
をもてしんバいしているとこそ 七 8
親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。
なにゝてもやまいいたみハさらになし
神のせきこみてびきなるそや 二 7
せかいぢうとこがあしきやいたみしよ
神のみちをせてびきしらすに 二 22
即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。
しかるに、親神の深い心を知らぬ人々は、ただ眼前の苦しみや悩みに心を奪われて、ややもすれば、あさはかな人間思案から、人を怨み、天を呪い、世をはかなみ、或は理想を彼岸に求めたりする。
にんけんもこ共かわいであろをがな
それをふもをてしやんしてくれ 一四 34
にち/\にをやのしやんとゆうものわ
たすけるもよふばかりをもてる 一四 35
一れつのこどもハかわいばかりなり
とこにへたてわさらになけれど 一五 69
しかときけ心ちがゑばせひがない
そこでだん/\ていりするのや 一五 70
親神は、これらの人々に、隔てない切々の親心を明かし、人間の我が子を慈しむ親心に照して、よく思案をするがよいと、いとも懇に教えられている。
およそ、人の親にして、我が子を愛しないものはない。
子の行末を思えばこそ、時には、やむなく厳しい意見もする。
この切ない親心がわかれば、厳しいうちにも慈しみ深い親神の心尽しの程がくみとられて、有難さが身にしみる。
ここに、かたくなな心は開かれ、親神の温かい光を浴びて、心はよみがえる。
そして、ひたすら、篤い親心に添いきる心が定る。
かくて、真実に心が定れば、親神は、すぐとその心を受け取り、どんな自由自在の 理も見せられる。
親神は、それを待ちわびておられる。
しんぢつに心さだめてねがうなら
ちうよぢざいにいまのまあにも 七 43
いまゝでハとんな心でいたるとも
いちやのまにも心いれかゑ 一七 14
しんぢつに心すきやかいれかゑば
それも月日がすぐにうけとる 一七 15
しかし、人間心のはかなさは、折角、てびきを頂いて、心を定めても、 時がたてば、一旦定めた心もいつのまにか動いて、形ばかりの信心におち、知らず識らずのうちに、又もや、親心に反する心を遣うたり、行をしたりして、しかも、気附かずにいる場合が多い。
神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。
なれど、一日経つ、 十日経つ、三十日経てば、ころつと忘れて了う。
おさしづ(明治三一・五・九)
と示されている所以である。
故に、
日が経てば、その場の心が弛んで来るから、何度の理に知らさにゃな らん。
おさしづ(明治二三・七・七)
と仰せられ、ともすれば弛みがちな心をはげまして、なおも心の成人を促される上から、信心するうちにも、幾度となく、身上や事情の上に、しるしを見せ、心を入れ替える節を与えられる。
この篤い親心を悟つて、 益々心を引きしめて通つてこそ、生涯変らぬ陽気づくめの理を見せて頂ける。
かくて、教の理が胸に治り、心が次第に成人するにつれて、大難は小難に、小難は無難に導かれる親心が、しみじみと感じられて、今まで喜べなかつたことも、心から喜べるようになり、今まで楽しめなかつたことも、心から楽しめるようになる。
陽気づくめの境地への力強い足どりが、こうして進められてゆく。
しやんして心さためてついてこい
すゑハたのもしみちがあるぞや 五 24