天理教教会辞典 愛知大教会 あいちだいきょうかい

愛知大教会(あいちだいきょうかい)

橋本伊平の入信

愛知大教会の創始は、2代会長となった橋本伊平が、明治20年(1887)1月、静岡県周智郡森町村で寿司屋をしている時、ノボセ眼(結膜炎か)となり、後見役で親代りの岡野桂次郎に、「おたすけ」を頼んだところ、「お前の様な悪道を通って来た者は、眼が悪くなるのも当然だ。今まで通って来た道すがらについて、よく胸に手を当てて思案して見るがよい」と諭され、一心にお詫びをしながら親神天理王命に願ったところ、翌朝にはすっかり痛みもなくなり、不思議な御守護を頂いたことに始まる。

岡野桂次郎は、すでに前年、孫の安産願から入信し、山名大教会部属周智分教会の基を築いた人である(初代会長は息子の勘藏)。

伊平は、嘉永6年(1853)静岡県佐野郡掛川宿(掛川市)で生まれ、幼少にして父母を失う薄倖の運命から、親戚や姉妹に迷惑をかけ、役者稼業に入っての極道の道すがらなど、15歳この方通って来た事を、この日、聞かせて貰った天理の教えに照らして反省し、その「さんげ」の角目を巻紙に書いて、岡野家の神棚に供えて、再び前車の轍は踏まない事を誓うと共に、お助け頂いた上は必ず御恩返しに人様をお手引きする事を誓った。

時に伊平は33歳であった。

この心定めを生涯変える事はなかった。

こうして入信した伊平は、岡野桂次郎夫婦と共に、静岡県山名郡下貫名村(袋井市)にある後の山名分教会へ、ハシゴ峠を越えて3里(11.7km)の道程を朝参りに通って、信心の道に心を磨いた。

このような中に、明治22年5月中旬の頃、かつての役者時代の師匠、片岡松童(坂入泰次郎)が、名古屋区城代町(名古屋市中区)の佗住居で、病気となり床に臥していると聞き、松童の叔母に当る岡野いと(桂次郎の妻)と共に見舞に行き、一生懸命に信仰するように勧めた。

伊平の心は、師匠がお道の教えを聞き分けて守護を見る事を願っていた。

2、3日滞在する間にすっかり元気になり、松童は5月22日入信し、後日山名分教会にお礼参拝した。

それ以後は、時々伊平は仕事の合間に名古屋へ出掛けて「においがけ」をしていたところ、その年、12月初旬の頃、松童の出入り商人が、「うちの親方が中風で、もう10年余りも寝た切りだが、これでも助かるだろうか」と言った。

親方とは、芝居に使う櫛やかんざし等の小道具を商う錺(かざり)屋の主人で、名古屋市南伊勢町(名古屋市中区)130番戸の、隠居宅に住居する柴田久兵衛のことで、伊平は自分の入信から今日まで聞いた月日親神の話、「かしもの・かりもの」「八つのほこり」について取次ぎ、茶碗に水を一杯汲んで来て、久兵衛に代って親神天理王命にお詫びを言って、この水を飲ませた。

久兵衛は、伊平の話を聞き、月日親神の世界である事実にいたく感銘し、「よし、余命あらば、自らの財を人助けの上に投げ出そう。それがせめて今日までの罪滅ぼしだ」と悟り、明治22年12月10日入信した。

名古屋布教

橋本伊平は、諸井國三郎山名分教会初代会長に、柴田久兵衛の入信を報告したところ、「それはよかったなあ。名古屋は中京と言うて将来性のある所である。道も世界に延びにゃならん。お前、久兵衛を足場に名古屋で布教をせぬか」と言われた。

早速、寿司屋を店仕舞し、翌23年1月15日親しい森町の信者達の見送りを受けて、山名分教会に住み込んで道一条の御用専務となった。

次いで1月21日東海道線袋井駅で下り一番列車に乗車して名古屋駅に降り立ち、布教の一歩をふみ出した。

ここに伊平は、柴田久兵衛宅を根城に、名古屋市内での布教を開始し、久兵衛の全面的な応援があって、下請業者、出入商人等が陸続と入信し、毎夜ておどりの練習と教話の取次ぎに明け暮れるようになった。

こうして、23年末には221戸の信者加入となったが、その中の一人、市村末彦(小牧大教会初代会長)は、土族市村重明の次男だが、生まれつき「かいぐり」という病気で這うようにしていた。

生涯をこのような姿で通らねばならぬかと悲歎に暮れながら、親戚の石崎金太郎の錺内職をしているところを、伊平から「人を助けて我が身助かる」と聞き、這う姿で聞いたばかりの教理を説いて回るうち、21日目には足の裏が上向いていた姿から、常人通りの姿に鮮やかに守護を見、生まれて初めて下駄を縛って履いた。

末彦がその感激を生涯持ち続けて布教に挺身した事は、志を同じくする布教師の胸に誠に大きな影響を与えた。

末彦は名古屋市葛町にて明治23年4月7日21歳で入信した。

そのほか、同市鍋屋町の小柴久七は、久兵衛妻の従兄弟で、明治23年3月11日入信し、久兵衛なきあと、支教会副会長として専従している。

同市飴屋町の山田治七は久兵衛の下請にて、23年4月22日入信し、教会に住み込んで、後に平針分教会長となった。

同市南伊勢町の近藤初太郎(初次郎ともいう)(27歳)は、文字の提灯屋だったが、久兵衛の手引きにて23年4月28日入信し、一宮、熱田分教会長となった。

同市小林町の柴田安次郎(24歳)は士族だったが、油類行商から久兵衛の手引きで23年5月13日入信し、熱田、渥美分教会長となった。

同市土井下町の諏訪清吉(57歳)は、士族の間柄から23年6月26日入信し、幅下分教会長となった。

同市葛町の白木嘉一(35歳)は、市村末彦の手引きで、長女らい(14歳)のルイレキ病から23年7月28日入信し、教会住み込みから半田分教会長となった。

同市古渡町の山田松吉は、妻きようの眼病から23年11月11日入信し、東春日井郡小牧町(小牧市)に製菓職人として移住、同町伝道の基となった。

同市東橘町の餅屋職人、鳥居清左衛門(33歳)は、失明寸前のところを手引きされて24年1月1日入信し、知多郡半田町(半田市)に移住してせんぺい行商や餅屋をしながら布教し、知多郡一円伝道の端緒となった。

海東郡津島町(津島市)の土族、横井伴右衛門は24年1月13日入信し、津島地区伝道の基となった。

東加茂郡加茂村の杉山芝三郎(37歳)は、24年2月19日入信し、円扇、扇子の行商をしながら中島郡一円に布教し、一宮分教会の基となった。

名古屋市北駅町の鶴田嘉七は、円扇、扇子の商いを手広くやっていたが、24年3月四国弘法巡礼の途次、妻たかの癪病から入信、長男泰次郎の眼病より布教一条となり、名古屋西北部や岐阜県武儀郡一円に伝道し、幅下、菅原、武儀分教会の基を築いた。

知多郡篠島村の漁師、辻元吉は妻たかの婦人病から24年3月入信し、折戸菊三郎と共に同村伝道し、に渥美郡一円への伝道となっている。

支教会設置

その間、23年5月19日名古屋真明組を柴田久兵衛宅にて結成し、名古屋第一警察署に届出た。

講長は橋本伊平、周旋方は柴田久兵衛外16名である。

しかるにその年11月、橋本伊平は山名分教会専務となって分教会に引き揚げたので、分教会より役員が交互出張する中に、県内はもとより岐阜県にも教勢は伸展し、24年4月までには278戸の信者加入となり、次第に教会設置の機運が台頭して来た。

明治24年4月9日には本席飯降伊蔵始め本部役員6名のお立ち寄りで、教会設置視察を頂く栄を見て、その年4月25日教34号を以て、名古屋市南伊勢町2丁目130番地、柴田久兵衛持家にて愛知支教会設置を許された。

支教会長は、山名初代会長の意向から、諸井松太郎(山名2代会長、清磨)が任命を受けた。

この時頂いた「おさしづ」は「運ぶ一つの理は、重々許そ。十分の理は掛かりという。掛かりというは小さい。 一つの理から運び、小さき處から、ぼちぼち運び、理は十分許そ/\。」(さ24・4・25)にて今後を明示頂いた。

明治24年6月6日名古屋市長の認可を得た。

直属教会の設置

名古屋市始め爱知県、岐阜県内へ一波は万波を呼ぶ如く、先覚者の御恩返しの布教伝道は講の結成となり、さらに部内教会の設置となる。

まず愛知県愛知郡熱田町(名古屋市熱田区)は、魚の集散地であるところから、23年には入信する人が出来、24年に中川吉三郎、加納由兵衛等が入信し、明治25年6月9日石崎金太郎を担任に熱田出張所が設置された。

渥美郡清田村(渥美町)は、鈴木弥次郎長女いわの身動き出来ぬところ守護を見て、鈴木利兵(眼病)、中村喜平(妻の胃病)等が入信し、明治25年6月9日土井健次郎を担任に渥美出張所が設置された。

東春日井郡小牧町(小牧市)では16日市村末彦を担任に小牧事務所の設置を見た。

次いで中島郡一宮町(一宮市)では、明治24年11月より今枝佐兵衛、坂川三四郎、佐分清一(父精神病)等が入信、清一の持家に明治26年6月13日近藤初太郎を担任に、一宮布教所が設置された。

知多郡半田町(半田市)では、25年2月より三ツ谷砂太郎、平野平太郎等が入信して、27年7月12日白木嘉一を担任に半田出張所の設置となり、翌28年10月には、常滑出張所(担任、松山徳三郎)、阿久比布教所(竹内関太郎)、八幡布教所(早川清吉)、野間布教所(沢田松三郎)が部内教会となった。

さらに、岐阜県武儀郡上牧村(美濃市)では、紙問屋の太田菊治郎が息子英弌の性病から人助けの心を定めて明治25年11月入信、同28年5月17日武儀出張所の設置となり、同郡菅谷村(洞戸村)でも、開村の祖である庄屋、松田寅三郎本人が胸の患いから、同25年8月入信し、近隣や長野県、群馬県へも布教して、同30年8月30日菅原出張所を設置した。

名古屋市西北部は、鶴田嘉七父子の伝道から尾張地区に広がり、明治26年12月新道町の菓子問屋、伊藤芳次郎はカリエス病にて御岳教から転宗、杉野清藏,古橋吉左衛門、村手音次郎等と共に同30年10月2日幅下布教所(担任、諏訪清吉)の設置となり、同40年5月には批杷島布教所(伊藤芳次郎)、北海道の虻田布教所(豊島源十郎)が部内教会となった。

また、愛知県知多郡篠島村(南知多町)は、中村関次郎等の力添えで、明治30年10月2日篠島布教所(担任、折戸菊三郎)の設置を見、岐阜県土岐郡笠京村の長江嘉兵衛は妻ふか胸の患いから、明治25年1月入信し土岐郡、恵那郡一円伝道の基となり、大嶽角太郎が妻いわ胸の恵いから同30年4月入信し、下石町の教会設置地の土地献納から、同33年10月9日土岐出張所 (抱任、木村林蔵)が設置され、同42年12月岩村町宣教所(大嶽豊美)、同45年5月北海道の石上宣教所(大嶽又治郎)が部内教会となった。

名古屋市南西部では、市村末彦の奇蹟的守護と白熱的布教により、明治25年4月葛町集合所(浅井梅次郎)始め各地に分講が出来、同34年11月21日中京布教所(担任、竹内正常)の設置となった。

愛知県愛知郡平針村(名古屋市天白区)でも、安井すずが隣家の横地兼吉の瘍を助ける願いから、明治27年1月伝道が始まり、愛知郡鳴海町で布教中の松浦金雄の力を得て、同34年11月21日平針布教所(担任、山田治七)の設置となった。

なお、爆発的ともいえる教勢発展のきっかけには、市村末彦の守護話と共に、一宮布教所の手引きから岐阜県羽島郡笠松町の足立末吉が、幼少よりカリエス病で右足が背中に廻って首のところに足がある姿で寝たきり病人であったのが、29年に教会に住み込んでつとめるうちに2年程で常人と変らぬ程に快復した霊救話を、写真を見せては布教伝道の話の台にした事によると伝わる。

橋本伊平の2代会長就任

教勢伸展の中に支教会内部で事情が起こり、幾度か「おさしづ」を伺い、教会本部から出張を願う事態の結果、初代会長の諸井松太郎は、明治28年7月13日に会長職を辞して秋田県に単独布教に出た(現名京大教会北秋田分教会始まり)。

山名分教会では、これに対処するため役員を交互に派遣し、山名初代会長もその衝に当たる中に、長男政一を後任会長にと、32年2月2日頂いた「おさしづ」には「道ありて道の理立てん。道の理立てんからこの事情ある。道聞いて立ぁてる理あれば、治まらん事あろまい。所に事情ある。一時とんと思うよう行かん。そら所という理ありて、それから心解け難くい。そこで人誰以てせえ、彼以てせえと言うは、順序以てすれば、そらいかんこらいかん言わん。」押して「どうしてというさしづ出けん。地所所に事がある。」(さ32・2・2)ということであった。

これによって土地処に伏せ込んだ橋本伊平を以て2代会長とする事が、山名分教会の衆議で決まった。 明治32年8月22日支教会長事務扱いとして橋本伊平は、元一日の種を下ろした愛知支教会に来会し、諸準備の上、翌33年1月18日2代会長の許しを頂いた。

この時の任命願書に署名した役員は、小柴久七、竹内正常、田中銀次郎、柴田安次郎、山田治七、白木嘉一、森德兵衛、市村末彦、近藤初太郎、諏訪清吉、柴田弥太郎、豊島鉞太郎、森鉄次郎である。

道は順調に伸展を見て、門前市を成すが如き参拝者の群れを見る状況から一転して、29年の内務省訓令発布からはいずこも参拝者は数人と言う閑散たる事態となったが、布教師は今こそ真に教祖ひながたが踏み行えると勇み立ち、先をきそって遠国へ布教しようという風潮が出て、親の声を頂いては出発した。

すなわち明治33年1 月初代会長諸井國三郎が愛知支教会に巡教して「山名は奥州から台湾まで教線が延びた。あと北海道だけである。愛知から行く者はないか」との言葉に、小牧出張所の外、幅下出張所は明治33年3 月若杉藤次郎が開拓農業兼布教目的で北海道虻田郡虻田村に出張し、続いて豊島源十郎、水野栄次郎が同地に、林薫三郎が上川郡東旭川村に出たが、41年大矢文次郎と替った。

土岐出張所からも34年9月林柳助を頼って、林正太郎、加藤与三治が上川郡東川村に出たが37年大嶽又治郎と替った。

その他、菅原、一宮、武儀も布教師を送った。

明治年間布教伝道は教祖30年祭から40祭にかけて部内教会設置が陸続と出願される姿となった。

すなわち、大正14年末で愛知県61、岐阜県15、北海道14、東京4、埼玉4、樺太2、千葉1、長野1、計102が新たに出来た。

さらに、昭和に入って中華民国、アメリカ、ブラジルへの布教も開始された。

添地町への移転

明治31年4月副会長柴田久兵衛より教会所在地200坪(661㎡)の献納を受け、4月15日普請の許しを頂いて、木造瓦葺平家建神殿47坪(155㎡)外7棟135坪(446㎡)を竣工して7月31日鎮座祭、8月1日開筵式を執行した。

だが柴田久兵衛の出直しにより、異議が出たため、40年に名古屋市東区葵町に移転地を求めたところ、手金流れとなり、43年7月東区添地町9番地の1、宅地388坪(1,283㎡)を買求め、従来の建物すべての移築に掛かり、44年3月6日お許し、8月28日鎮座祭、29日移転奉告祭を執行した。

その間明治41年11月27日、天理教は一派独立が許可され、教規の大改正が行われて42年2月25日愛知分教会と改称の許しを頂いた。

この時の教勢は部内教会23カ所、教人197名、ようぽく653名、信者4,520戸にて、役員は市村末彦、柴田安次郎、白木嘉一、山田治七、近藤初次郎、畑中伴右衛門、豊島鉞太郎、松田寅三郎、伊藤芳次郎である。

名京大教会の所属となる

山名大教会では、明治33年1月17日諸井清磨が2代会長に就任し、5月より静岡県磐田郡袋井町に移転建築の工事が始まり、37年11月奉告祭が執行されたが、大正7年(1918)6月22日初代会長の諸井國三郎が出直した事により教統問題が起こり、本部指示を仰いで、同12年5月山名大教会を二分して、新たに名古屋市内に大教会を新設する事が決まり、11月23日名京大教会の設置が許された。

愛知分教会は部内教会50カ所と共に名京大教会の所属となり、その建設すべてに亘り中心的役割を部内挙げて務める中に、同13年4月19日仮神殿が竣工し、鎮座祭が執行された。

道はすでに教祖40年祭活動の真只中にて、教勢倍加提唱を受けて教校別科入学者の増加、別席団参、ちまたに宣伝歌、路傍講演等の神名流し、布伝道の群れ隊が盛んとなり、各地に部内教会の新設が相次いだ。

教祖40年祭典には3,500名が団体貸切列車でおぢば帰りし部内教会数は126カ所となった。

2代会長の橋本伊平は、大正15年7月16日74歳で出直した上から、後任には名古屋教務支庁長の意向で、名京大教会初代会長夫人諸井梅乃が大正15年9月15日3代会長の許しを頂き、市村末彦が会長代行となった。

名京大教会は詰所、大教会整備と神殿普請を繰り返して、昭和9年6月2日落成奉告祭が執行された。

大教会昇格

道は挙げて教祖50年祭、立教100年祭を目指して昭和普請進捗と共に人類更生運動を展開、40年祭にも増して教校別科への入学者、別席、献米、ハッピ等の団参を繰り返す中に、昭和9年5月25日小牧支教会が分教会に昇格して名京大教会の直属となり、愛知の部内教会は89カ所となった。

昭和10年1月25日橋本伊平の長男兼正が4代会長の許しを頂いた。

教祖50年祭、立教100年祭が執行されるや、国際情勢が悪くなり、国体明示の強調、宗教改革が叫ばれ、教義の修正、教規の大幅改正が行われた。

よって昭和14年12月には真柱より一次指名を受け、同15年3月9日(1940)教昇559号にて大教会昇格のお許しを頂き、名京大教会より分離した。

この時の部内教会は93カ所、教人556名、ようぼく2,027名、信者9,970戸にて、役員は大嶽豊美、柴垣嘉十、松田たよ、安井銀松、後藤勝右衛門、太田寅造、中村閑次郎、竹内清市、山田外二郎、古橋宗次郎、中村真平、松田英邦、杉野平四郎である。

名京詰所内に詰所を仮に設置し、柴垣嘉十が主任となった。

同16年3月7日2代真柱の入込みを頂き、8日昇格奉告祭を執行した。

初日町へ移転

昭和16年12月8日太平洋戦争が始まり、いざひのきしん隊が結成され、戦時体制下の貧困の中に米軍機の空襲が盛んとなり、遂に同20年3月19日名古屋市内焼失と共に大教会も有形のものすべてを失った。

からくもお目標のみ部内の名城分教会に避難、5月東区板屋町の借家に仮移転、8月15日終戦となった。

ぢばからは復元の声を頂く中に、昭和20年11月4代会長の身上から大教会復興ふしんの心を定め、翌21年教祖60年祭を終えて、3月打ち出し、8月27日名古屋市瑞穂区初日町1丁目26番地に移転建築の許しを頂いて着工、同22年12月2日鎮座祭、3日復興奉告祭を執行した。

この時の建築物は木造柾葺平家建神殿72坪(238㎡)外4棟、計133坪(439㎡)である。

青年会、婦人会が相次ぎ復活し、近くの市民病院や道路の清掃ひのきしんをすると共に、修養科入学者や別席者の丹精に尽力し、27年4月おやさとやかたのふしんが打ち出され、ひのきしん団参、おたすけ講習会を実施した。

昭和28年3月27日天理市別所に愛知詰所の建物が竣エし、31年1月教祖70年祭を迎えた。

5代会長就任

昭和36年教祖80年祭活動が打ち出され、おやさとやかた建築と用木養成に傾注しながら、ひのきしん、別席団参を繰り返し、41年1月教祖80年祭を迎えた。

43年4代会長夫婦の身上、会長夫人の出直から橋本兼正は会長を辞したので、9月27日嗣子義郎が5代会長の許しを頂いた。

44年11月境内地が名古屋市街路計画線上に在るところより、移転の機運が台頭し、45年5月26日名古屋市緑区鳴海町字神之倉3番地182に移転建築の許しを頂いて着工、9月仮神殿に遷座、46年9月26日神殿建築の許しを頂き、48年11月6日鎮座祭、7日奉告祭を執行した。

この時の建築物は、鉄筋コンクリート造平家建神殿644㎡外14棟、計1,482㎡にて、部内教会数は106カ所、役員は竹内清市、中村真平、松田英邦、柴垣博之、安井忠義、長谷川光彦、伊藤芳宗、大嶽栄治、中村六朗、竹内正次、古橋信一、竹内廣一、林実、新美一二、松山育造、近膝健二、長谷川みよ、水谷功、山辺常左衛門、天野喜右衛門、太田道太郎、伊森惣次郎、堀田光國、後藤一春である。

昭和51年 1月教祖90年祭を迎え、53年4月88母屋建築に着工、54年8月28日竣工して開所した。

教会本部より昭和52年東西礼拝場ふしんが打ち出され、ようぼくの一層の成人を心掛けて、昭和61年1月教祖100年祭を迎え、13,000名が帰参した。

愛知大教会年表

年号月日内容
嘉永6年5月25日2代会長橋本伊平、掛川市にて橋本金蔵、きとの長男として出生
明治20年1月橋本伊平、目の患いより入信
明治23年1月橋本伊平、再度、目に御障り頂き、生涯道一条を決意
1月21日橋本伊平、名古屋布教を始める
5月19日柴田久兵衛宅にて名古屋真明組結成
11月28日橋本伊平、山名分教会常詰となる
明治24年4月9日本席飯降伊藏お入込み
4月25日名古屋市南伊勢町に愛知支教会設置お許し(会長、諸井松太郎)
6月6日地方庁認可
明治25年6月9日部内教会設置始まる
明治26年2月11日教会内事情のため、おさしづ頂く
明治28年7月10日再度、事情のため、おさしづ頂く
7月13日諸井松太郎、初代会長辞職
明治31年4月15日神殿建築のお許し(おさしづ)
8月1日神殿落成し開筵式執行
明治33年1月18日橋本伊平、2代会長のお許し
明治36年2月14日橋本伊平、山名分教会入込みおさしづ頂く
明治40年土井庄之助、アメリカ布教始める
明治42年2月25日分教会に改称お許し(教改651)
4月23日改称奉告祭執行
明治44年3月6日名古屋市東区添地町に移転
8月29日移転奉告祭執行
大正12年2月28日橋本伊平、幅下支協会長兼務お許し
11月23日名京大教会設置、その所属となる
大正15年7月16日橋本伊平出直し(74歳)
9月15日諸井梅乃、3代会長のお許し
10月16日3代会長就任奉告祭執行
昭和3年9月18日林勝郎、中華民国布教を始める
昭和5年7月11日小島久満吉、アメリカ布教を始める
昭和10年1月25日橋本兼正、4代会長のお許し
3月20日4代会長就任奉告祭執行
11月15日2代真柱、地方巡教にてお入込み
昭和11年2月岩島義一、ブラジル布教を始める
昭和15年3月9日大教会昇格お許し(教昇559)
5月27日婦人会愛知支部結成
7月27日青年会愛知支部結成
昭和16年3月8日昇格奉告祭執行
昭和19年12月26日中山慶一本部准員大教会になる
昭和20年3月19日戦災にて全焼、名城分教会に避難
5月10日名古屋市東区板屋町55番地に仮移転
昭和21年8月27日名古屋市瑞穂区初日町1丁目26番地に移転建築のお許し
昭和22年12月3日復興奉告祭執行
昭和26年5月1日創立60周年記念祭執行
昭和27年5月29日詰所建築お許し。翌3月27日開所
昭和28年7月3日直属教会に世話人制度設ける
昭和30年3月23日用木大会開催
昭和31年9月22日神殿屋根葺き替え奉告祭
昭和36年11月5日創立70周年記念祭執行
昭和37年1月21日青年会館竣工
3月10日中山善衛たすけ委員長のお入込み
昭和43年9月27日橋本義郎、5代会長のお許し
12月22日5代会長就任奉告祭
昭和45年5月26日名古屋市緑区鳴海町に移転お許し
11月27日教会長講習会開催
昭和46年9月26日神殿建築お許し
昭和48年11月7日神殿落成奉告祭執行
昭和49年5月24日教祖90年祭地方講習会開催
昭和54年8月28日88母屋竣工、開所式執行
昭和55年1月5日高橋一男本部准員大教会世話人になる
昭和56年10月30日創立90周年記念祭執行
昭和57年5月23日用木決起大会開催
昭和58年7月23日深谷忠政本部員、巡教
昭和59年4月29日道の後継者講習会開催
昭和60年2月3日アメリカ出張所開所式(青木茂道)
[関連文献]
  • 『愛知史年譜』(昭和42年)
  • 偲草『千代子のおもかげ』(昭和44年)
  • 『愛知大教会史』第一巻(昭和48年)
  • 『愛知大教会神殿ふしん』(昭和48年)
  • 『橋本伊平伝一生涯を偲ぶ』(昭和50年)
  • 『愛知大教会90年の歩み』(昭和56年)