天理教人名辞典 山田伊八郎 やまだいはちろう

山田伊八郎 やまだいはちろう

嘉永元年(1848)3月14日、大和国十市郡倉橋村井出屋舗(現、奈良県桜井市大字倉橋字出屋敷)に、父伊平、母タカの長男として生まれた。

村一番の豪農の嗣子として、緑豊かな大自然の中で、大師信仰に熱心な何不自由のない恵まれた家庭環境に包まれて、9歳から19歳までの11年間、師について学を修めつつ成長し、次第に村人たちの人望を集めていった。

26歳で結婚、28歳から父の後を継いで村役をつとめ、道路改修事業や生活困窮者救済のための頼母子講など、次々と積極的に実行していった。

しかし伊八郎夫妻には子供が授からず、離婚話が出ていた。

明治12年(1879)32歳ではじめて生まれた男児を、生後10日で失ったのを機に、遂に離婚という人生の悲哀を味わうこととなった。

この失意の中で、人の勧めで山中こいそとめぐり逢い、これが伊八郎のその後の人生を大きく変えることとなった。

山中こいそは教祖(おやさま)の高弟山中忠七の二女で、当時教祖の身近にお仕えしていた。

ひと目見た伊八郎はこいその人柄にひかれて早速結婚の申し込みをしたが、教祖のお許しがないとの理由で断られる事2度。

2年後の3度目の申し込みで

「嫁にやるのやない。……南半国道弘めに出す。」

との教祖の言葉によって、明治14年5月に結婚した。

伊八郎34歳、こいそ31歳。

こいそとの結婚が伊八郎の入信の契機であり、明治14年8月義父山中忠七に導かれて、生まれてはじめて教祖の元へ詣った。

以来10数kmの道を歩いて教祖に教えを乞い、帰り道に反復し、お言葉を残らず全部筆録して胸に治め、信仰は急速に深まっていった。

やがて村中にも次々と信仰する人達が増え、明治14年12月には伊八郎を講元として「心勇組」(敷島大教会の前身)を結成した。

この組は、「てをどりのつとめ」によるおたすけ熱心さの故に「おかぐら組」と呼ばれたほどで、この白熱の信仰は、宇陀、吉野から三重、和歌山へと伸び広まっていった。

伊八郎の信仰は「ぢば」に真実を伏せ込むこと、人をたすけて教祖に報いることに徹した。

「よく話を聞いて理を心に治めて、御教祖様へ御恩を報じにやならん。此の恩報じるには、只々参詣するだけや拝むだけやない。つとめにやならん。どうでも運ばにやならん」との、彼の手記にその信仰信念を見ることが出来る。

伊八郎は明治32年敷島分教会2代会長に就任し、明治42年大教会に昇格。

明治44年9月本部員に登用された。

教理に明るく「たんのうの人」と評された伊八郎は、大正5年(1916)8月21日、「どふぞなあ寒い事とひだるい事となくば是で結構とたんのふして通りてくれ」と枕辺に書き残して、熱烈な布教生涯を閉じた。69歳であった。