天理教人名辞典 山澤良治郎 やまざわりょうじろう

山澤良治郎 やまざわりょうじろう

山澤良治郎(最初は良助)は、天保2年(1831)2月22日、父利助、母べんの5人兄弟姉妹の長男として生まれる。

元治元年(1864)、34歳のとき、実姉山中その(山中忠七の妻)のふしぎなたすけを目の当たりにして熱心に信仰するようになる。

住居は大和国山辺郡新泉村(現、天理市新泉町)。

妻のぶとの間に、良蔵、為造、音吉の3人の子供があった。

元治元年、おやしきでは、つとめ場所の普請がすすめられており、その棟上げが立教の元一日ゆかりの10月26日に質素にとりおこなわれた。

良治郎は都合で参拝していない。

それに代わって二男為造が弟音吉を背負い、手に重箱をもって新泉から参拝している。

その後、いわゆる「大和神社の一件」があって、その収拾策の一端を山澤良治郎がになったことが『稿本天理教教祖伝』(58頁)に記されている。

大和一円の神職取締であった守屋筑前守は、山澤家の親戚筋、すなわち良治郎の叔母きみの嫁ぎ先であって、良治郎の叔父に当たったからであろう。

慶応元年(1865)の助造事件に際しても、その破邪顕正に守屋筑前守の代理として山澤良治郎が参席している(同65頁)。

また、慶応3年吉田神祇管領の公許を得るべく願い出たときにも、秀司の供として、守屋筑前守同道の上、京都に上っている(同97頁)。

明治14年(1881)、秀司が出直した後は、初代真柱がまだ若かったので、山澤良治郎がその後見役となって、対社会的な問題の処理にあたる一方、当時おやしきの会計もつとめていた。

「14年9月のふし」(当時、おやしきでは蒸風呂兼宿屋業の鑑札をうけていたが、その止宿人届の手違いから、山澤良治郎が呼び出され手続書を提出させられ、科料にも処せられた事件)や「14年10月の御苦労」(多数の人を集めて迷わすとの理由で、山澤良治郎はじめ5名が丹波市分署へ拘引、さらに教祖(おやさま)も拘引された)など、教祖とともに苦労の道を歩んだ。

このころ、教祖は「こふきを作れ」と仰せになり、それに応えるべく良治郎は、明治14年「此世始まりの御話控」(「和歌体14年本」『こふきの研究』所収)を提出している。

こうしたつとめを全うして、明治16年6月19日、53歳で出直した。