朝倉大教会(あさくらだいきょうかい)
教会設立まで
河原町大教会の初代・深谷源次郎によって興された期道会の道が、四方八方へと伸びゆく中で、佐治登喜治良によって湖東大教会の道となり、明治24年 (1891)春、湖東の信者・提丑松によって北部九州へと伝えられた。
福岡県鞍手都木屋瀬に根付いた筑紫大教会の道が、翌25年正月ごろ、同県朝倉地方に伝わり、福岡県下座郡(のちの朝倉都)三奈木村川原の平田伊右エ門が入信し、同年5月、この地に斯道会第743号講社が結成、朝倉大教会の元一日を形成した。
同年8月、同村板屋の内田松吉が、父・長作の眼病を助けて頂きたいー心から、伊右エ門の手引きを受けて入信し、翌26年5月の布教開始とともに、朝倉の道は発展の一途をたどることとなる。
松吉の布教は「たすける理がたすかる」との言葉を素直に信じ、実行することから始まった。
松吉自身の入信の勤機となった父の眼病は、結果的には、父が出直すまで良くならなかったが、布教開始後間もなく、聞き覚えのお話の取次ぎによって、癪(しゃく)の病に苦しむ人が不思議に助かったことにより、松吉は次第に布教に熱心となり、ついに家業(農業)を捨てて布教専務にたち至った。
家業に精を出し、代々の財産を守ることこそ第一と考えられていた時代にあって、こうした松吉の変わり様は、到底社会に容認されるものではなく、親類や周囲の激しい反対に遭ったが、松吉の信念は固く、そうした周囲の目や反対を逃れるために、きれいに洗った肥桶やワラふごに羽織を隠し、あたかも野良仕事に行く格好で家を出て、途中で着替えては布教に励んだ。
こうした熱心さから、次々と成果が上がり、明治27、8年には、のちに役員となって、松吉と共に朝倉の道を繁栄に導いた人々が、続々と入信した。
明治28年秋ともなると、布教の範囲は「旧23・4力村」以上に広がり、入信する者が相次いだが、日本国中を吹き荒れた天理教撲滅運動の嵐は当地方にも及び、警察の厳しい干渉を受けるようになった。
布教中止を迫り、講社での「おつとめ」を妨害するなど、その干渉は日増しに激しさを加えて、人々の心を不安に陥れ、やがてそれは、筑紫の指導と相まって、教会設立へと向かわせる力となっていった。
70余名の同志が話し合いを重ね、宮野村比良松の日田街道沿いの古家を買い取って、教会設立を願い出ることになったが、松吉をはじめ信者の中には、会長となる資格(教導職)を持った者がおらず、同じ筑紫の流れをくむ千歳出張所の重松市郎を初代会長として、明治29年6月16日、朝倉出張所設立のお許しを買いた。
教会設立を機に人々の布教活動にいっそうの拍車がかかり、道は朝倉郡内から同県嘉穂郡や、大分県日田郡、玖珠部へと伸びていった。
一方、教会設立と同時に、三奈木村六本松に原野7反8畝(78a)を購入して、明治30年から境内地造成と2階建の神殿兼事務所建築にとり掛かり、翌31年5月に落成式を挙行し、 教会の移転と同時に、その周囲に熱心な役員たちが引っ越して、9戸の麓(ふもと)を形成した。
親神の御守護を信じ、将来への大きな夢を抱き、ただ一筋に布教に励む人々の姿がそこにあった。
2代会長の時代
明治34年3月、初代会長の辞職に伴い、内田松吉が2代会長のお許しを頂いて、名実ともに朝倉の中心となって働くことになった。
この2代会長就任に時を合わせ、同年5月には初めての部内教会、玖珠、東朝倉(のちの古月)の2カ所を設立し、道はさらに、大分県東部や熊本県へと伸びていった。
また、会長の意を受けて道一条にたち替わる者が相次いで、麓は翌35年までにその数30戸を数えるまでになる。
こうして、朝日の昇る勢いを見せた朝倉の道であったが、明治37年に至り、日露戦争突入による全国的な不況の嵐にのみ込まれるように、急激な衰退を余儀なくされ、全教的な教勢停滞の渦の中で、一大苦境に立たされることになった。
参拝者は途絶え、食べる物にも事欠く状況の中で、かつて道一条を志し、すべてを拋って布教に励んできた者の中には、家族の生活という現実を目の前にして、内職をしたり、出稼ぎに行く者まで現れた。
苦境脱出を目指して、模索に模索を重ねたが、名案とて浮かばず、人々の苦悩は募るばかりで、このまま教会を解散する話まで出る始末であった。
この窮状を見兼ねて、福原惣太郎(のちの筑紫4代会長)が、再三にわたって来会の上、一同を集めて厳しく仕込んだ。
「朝倉に布教決死隊を作れ。決死隊精神でこの難関を突破せよ。親神様がきっと働いてくださる」[当時は日露戦争のまっただ中で、明治38年正月には旅順港が陥落し、それまで苦戦を強いられていた戦いも、ようやく日本側に有利に展開することとなった。その時、有名な203高地を落としたのが、乃木大将率いる「決死隊」で、乃木大将よ、決死隊よ、ともてはやされていた時のことである。]
明治38年3月、3昼夜に及ぷ仕込みの結果、松吉会長を先頭に、17名から成る「布教決死隊」が結成された。
- 決死隊員は3年間ワラジのひもを解かぬこと
- 家、妻子を願みず、おたすけに専念すること
- 家庭は女に任せ、会長宅の炊事場から煙が出ぬときは、お互い食わずとも留守を守り抜くこと
- 各自の御恩報じの精神定め(300円〜500円)
以上のようなことが申し合わされた。
その時教会の麓を構成した30数名の中には、ふんぎりのつかぬ者もいたが、進退極まるほど苦しい状況の中を、最後まで金銭収入を求めず、布教一筋に務めきった決死隊員の働きにより、わずか1年後には、早くも教勢の回復をみることができた。
ここで松吉会長は、かつて一様に麓に出てきた者で、17名の中に名を連ねられなかった者にも、暖かい手を差しのべ、さらには、教会の麓だけでなく、朝倉全体が一丸となって難関にたち向かう態勢を作り上げる上から、明治40年正月、新たに「決志隊」なるものを結成し、これには29名が名を連ねた。
こうして、明治40年も中ごろには、元の勢いをはるかにしのぐほどの活況を呈し、新たな発展へ向けての力強い歩みが始まったのである。
明治42年には、信者戸数700を数えて支教会と改称、43年には3番目の部内教会(東豊一のちの理豊)設立、44年には100坪(330㎡)に及ぶ神殿建築にとり掛かり、翌45年3月に鎮座祭、奉告祭を執行した。
このころおぢばでは「大正普請」の最中のこととて、精一杯の伏せ込みをさせて頂いた上での神殿建築で、かなりの借金が残ったが、部内教会や講社の布教師たちがそれぞれに受け持つ形で「借金はおたすけによって返せ」との松吉会長の信念そのままに、各地で活発な布教活動が展開され、約3年後に借金返済したころには、教勢の仲展はめざましいものがあった。
教祖30年祭直後の大正6年(1917)に梅満が、同8年には田主丸が設立され、喜びと勢いのおもむくままに、やがて大正10年1月、40年祭の打ち出しを迎えた。
教祖40年祭へ向けて
大正15年1月に執行される教祖40年祭に向けての活動目標として、「倍加運動」が掲げられた。
世界的に民主主義が広がりゆく社会の変動に呼応するように、天理教による世直し運動が叫ばれ「信徒もおさづけ人も布教師も教会も、すべてを倍加しよう」と呼びかけられた。
これを受けて、筑紫では「現教会1カ所につき教会2カ所新設、教校入学1期1名以上」という目標が掲げられた。
これまで、十分な実力がついた所から教会設立を願い出る方針を貫いてきたことを考えると、なかなか容易ならぬ数字であったが、40年祭の旬の動き、親の声に素直に添わせて頂く心を定め、早速目標達成を目指して、活発な活動を展開していった。
その結果、大正11年に3カ所、12年に3カ所、13年7月までに6カ所の設立をみて、教会数19となり、筑紫が打ち出した教会設立の目標を、早くも形の上で実現することができたのである。
人々の間に安堵(あんど)にも似た気持ちが広がりつつあったが、ここぞとばかりに筑紫から再び声がかかった。
「40年祭まで、まだ1年半もある。倍加運動の原点にかえり、さらに倍加を目指せ」
ここが真の踏ん張りどころであった。
松吉会長は、何がなんでも親の声を素直に受けさせて頂く方針のもとに、様々な反応を示す一同を一つにまとめ、新たな決心で、さらなる倍加にとり組んでいった。
こうした会長の意気込みは人々の心を勇み立たせ、大正14年1月から12月までに21カ所の教会設立をみて、40カ所の教会が手に手を取り合って、喜びあふれる教祖40年祭を迎えさせて頂いたのである。
この間、大正13年4月には分教会へと昇格し、千歳の手を離れて筑紫直属となった。
思えば、年祭前にはわずか6カ所の教会であったのが、40カ所となり、7倍加に及ばんとする御守護に浴することができた。
親の声に素直、親の思いに素直一条の松吉会長の信念が、部内全体に行き渡り、素晴らしい芽を吹いた40年条活動であった。
年祭後も布教活動は休みなく続けられ、筑紫の分離昇格や、教祖50年祭と立教100年祭のいわゆる両年祭の活動によって、さらに22カ所の設立をみて、50年祭を迎える時には、62カ所を数えるに至った。
3代会長時代
昭和11年(1936)9月、松吉会長が75歳で出直し、同年11月、弥之助が3代会長に就任した。
松吉会長には実子なく、大正2年に東豊の河野長三郎を養子に迎えたが、同9年に長三郎が出直したことにより、同13年、天拝(鎮西部内)の大石弥之助を迎えていたものである。
弥之助は、松吉会長が病に倒れてから約3年間、会長代理として務めてきたので、就任直後の空白期間もなく、順調な滑り出しであった。
昭和10年代、日本が新たな戦時態勢に突入したこともあって、十分な活動ができる状況ではなかったが、それでも先
代の遺志を継いで、日々の歩みを怠ることなく、同12年にはもう一つの教会が生まれた。
昭和15年2月、筑紫から分離して本部直属の大教会に昇格し、同年11月18日、2代真柱を迎えて昇格奉告祭を執行した。
大教会异格から3年後、秋岡末吉世話人巡教の折、「大教会にふさわしいように」との神床・上段改修の指図を受け、一同談じ合いの上、欄干、階段、中段の新設と、別棟にお祀(まつ)りしていた教祖目標(おやさまめど)を脇間(わきま)にお移しする改修にとり掛かることになった。
戦時中のこととて、用材・資金ともに調達は困難をきわめたが、一同の真実により、工事はほどなく完了した。
ところが、あと5万円の金がどうしてもできず、役員一同種々ねりあいの最中、一人の部内教会長が「昨夜夢の中で、親神様からお知らせを頂いた」とて5万円のお供えを運んできた。
親の言葉に素直に沿う心を定めて事に当たれば、親神が夢の中までも働いて、鮮やかな御守護をくださることを、一同はまた一つ体験させて頂いたのである。
4代会長の時代
昭和20年9月、3代会長弥之助が49歳で出直し、同年11月、4代会長に同夫人・トモが就任した。
この時中山為信本部員から「女は嫁して3年たてば子供を生み出す。教会も分離して3年たてば、理の子を生み出せ」との仕込みを受けた。
時あたかも教祖60年祭の旬「復元」の打ち出しに応える上から、かつての布教決死隊員17名の苦労を偲び、慰霊祭を執行するとともに、部内教会65カ所のところを、100カ所を目標に掲げて「100カ所運動」を展開した。
40年祭時の倍加運動を再現せんものと「入れ物を作れ、教会を作れ、入れ物を作っておけば、いずれ人が入る」との呼びかけに応じた先人たちの意気込みに思いをはせ、今再びの躍進を目指して懸命に務めきった結果、昭和22年までに37ヵ所設立のお許しを頂き、ここに部内教会102カ所を擁するに至った。
大教会昇格時に開設した朝倉詰所は、これまで筑紫詰所の一角を使用してきたが、教会数100ヵ所を超す大所帯ともなり、いつまでもこのままでは申し訳ないとの思いが広がって、新しい詰所建築の議が決せられた。
昭和25年、丹波市町守目堂に用地917坪(3,026、1㎡)を購入し、筑紫から「木造瓦茸2階建1棟」を譲り受け、同年9月着工、翌26年3月に完成して、開所式を挙行、ここに新しい朝倉詰所の出発となり、さらに、27年から、3階建新館及び事務所棟、倉庫増築など、逐次拡充を図っていった。
トモ会長は良家の子女として、何不自由なく育てられたが、長ずるに及んで因縁との戦いが始まり、内田家に嫁してからは、その連続であった。
その中 から、因縁を切る道としての信仰を体得し、親を立て親に素直一条の、松吉会長以来代々の信仰を継承した。
その信仰と信念を、会長就任以来十分に発揮し、女の身を願みるいとまもなく、部内を育て、麓の者を育てることに、全身全霊を打ち込んだ。
教祖70年祭から80年祭を迎えるころまでは、御用の面でも最も厳しい時期であった。
心定めが完遂できぬ危機を何度も迎えたが、その都度部内を駆けまわり、あるいは役員を総動員して急場をしのいできた。
こうした中を厳しく務めきる反面、情をかけるところは、また、徹底して温かかった。
単独布教で苦労している者には、遠路をもいとわず、おさがりを運んで励ましの声をかけ、夫の戦死に悲嘆にくれる妻があれば「困ったときは私がおるばい」と赤飯を炊き、共に涙しながら再出発を祝った。
5代会長の時代
トモは4代会長を務めること15年にして、昭和36年3月辞任、5代会長に養嗣子・光三郎が就任した。
光三郎は就任奉告祭の日に、2代真柱から「会長になるな。親になれ」との仕込みを受け、広く大きい心で通りきることを誓った。
就任後間もなく、教祖80年祭活動に入り、昭和40 年の秋、プラジルから3名、年祭参拝のために帰国した。
かつて農業移住で渡伯し、彼の地で信仰を統けた熱心な信者たちである。
2年後の真柱継承奉告祭に、40日に及ぶ船旅を経て、再び帰参した彼らの真実に心を打たれた光三郎会長は「ブラジルへのおみやげは何が良いか」と問えば「ぜひブラジルに来てほしい」との返事で、この時ブラジル巡教の腹を決めた。
昭和44年11月、会長夫妻の巡教によって、現地の信者たちは感涙にむせび、勇みに勇んで「においがけ・おたすけ」に励み、おぢばに帰る者が続出して、昭和51年、サンパウロ市に2カ所、同56年にさらに1カ所の教会設立をみることができた。
トモ会長時代から80年祭後まで続いた苦労の時代をなんとか脱却するため、一同協議の結果、部内各教会の勤めを年ごとに倍々と上げていくことに決した。
大教会はぢばの声を、部内は大教会の方針を、それぞれ素直に受け、その都度十分に果たしていくこの努力により、教祖90年祭後には、大教会として、ようやく一人前の勤めができるようになった。
こうした積み重ねによって、境内地拡張、表参道新設、昭和55年の信者会館建築、58年の第123母屋(朝倉詰所)建築など、ひき続く大事業を見事に完成させることができたのである。
また、光三郎は会長就任直後から、史料収集や記録写真の撮影保存に力を入れ、こうした地味な努力が報われ、やがて『朝倉大教会史第1巻』発行の運びとなる。
昭和58年5月、母屋開所式において真柱から頂いた「1・2・3という数字が、みなさんの心意気と日々のにおいがけ・おたすけの奮起一番によって、4・5・6と内容がますます増えていくように、勇んで務めて頂きたい」との言葉を深く心に治めて、三年千日の年祭活動を務めきり、昭和61年1月22日、教祖100年祭を執行した。
「白紙に戻りーより始める」教祖100年祭のこの年、5月には創立90周年記念祭を、9月には2代会長の50年祭を勤め、期せずして元一日を振り返る時を2度3度と迎えた。
「先人たちの親神様と交わされた約束、すなわちー生を道に捧げ、教祖の御教えを真っ正直に実行するという心定めを今もまた、みなさん方の心定めと確認して、親神様や教祖の御恩に報いさして頂くことができるようお務め頂きたい」創立90周年記念祭での、真柱のこの言葉を胸に、初代先人の「理に素直、親に素直一条」の思いをもって、たすけ一条の道を末代かけて歩み続ける決意を新たにしたのであった。
朝倉大教会年表
年号 | 月日 | 内容 |
明治25年 | 正月 | 朝倉地方に道が伝わり、三奈木村川原の平田伊右ェ門が入信する |
5月 | 斯道会第743号講社結成 | |
8月 | 三奈木村板屋の内田松吉、父の眼病から伊右エ門の手引きを受けて入信する | |
明治26年 | 5月 | 内田松吉、布教を始める |
明治27年 | 旧23・4 カ村に道が広がり、のちに教会役員となる者が相次いで入信 | |
~28年 | ||
明治29年 | 6月16日 | 福岡県朝倉郡宮野村大字比良松411番地に教会設立(朝倉出張所)。 会長重松市郎。月次祭14日 |
明治31年 | 5月12日 | 三奈木村六本松(現在地)へ移転建築、落成式執行。この年に9戸から成る麓を構成する |
明治34年 | 3月1日 | 2代会長に内田松吉が就任する |
5月16日 | 部内教会(玖珠、東朝倉)設立 | |
7月8日 | 2代会長教会入込みお許し。これに合わせて麓の拡充を図り、翌35年には30戸となる | |
明治37年 | 教勢衰退、壊滅の危機を迎える | |
明治38年 | 3月 | 布教決死隊結成(17名)。教勢回復 |
明治40年 | 1月 | 布教決死隊が29名で再結成する |
明治42年 | 3月3日 | 42 支教会と改称する |
明治45年 | 3月22日 | 神殿建築鎮座祭、翌日奉告祭。(部内教会3、直属講社28) |
大正10年 | 1月 | 教祖40年祭が打ち出される。倍加運動にとり組む(部内教会5) |
大正13年 | 4月24日 | 分教会に昇格し、筑紫直属となる |
恒例祭(月次祭)日を16日に変更 | ||
大正14年 | 倍加運動により部内教会39カ所となる | |
昭和3年 | 1月16日 | 天理教青年会朝倉支会発会式 |
4月16日 | 天理教婦人会朝倉委員部発会式 | |
昭和4年 | 1月16日 | 朝倉会発会式 |
昭和6年 | 1月30日 | 月次祭日を20日に変更 |
昭和11年 | 4月8日 | 月次祭日を4月に限り14日に変更 |
9月 | 2代会長内田松吉、出直(75歲) | |
11月9日 | 3代会長内田弥之助就任(部内教会61カ所) | |
昭和15年 | 2月26日 | 大教会に昇格し、本部直属となる |
6月28日 | 月次祭日を22日に変更 | |
11月28日 | 2代真柱を迎えて大教会昇格奉告祭 | |
昭和20年 | 9月 | 3代会長内田弥之助、出直(49歲) |
11月25日 | 4代会長内田卜モ就任(部内教会65カ所) | |
昭和21年 | 部内教会100カ所運動を展開 | |
昭和22年 | 22年までに102カ所となる | |
昭和25年 | 詰所用地買収、建築(守目堂) | |
昭和26年 | 3月30日 | 朝倉詰所開所式 |
昭和36年 | 3月27日 | 5代会長内田光三郎就任(部內教会107カ所) |
昭和42年 | 8月22日 | 天理教少年会朝倉団結成式 |
昭和44年 | 11月 | 5代会長、初の海外巡教 |
昭和51年 | 10月26日 | ブラジルに部内教会設立 |
昭和55年 | 1月21日 | 信者会館開館式 |
昭和58年 | 6月25日 | 第123母屋朝倉詰所開所式(豊井町) |
昭和61年 | 1月22日 | 教祖100年祭執行(部內教会121カ所) |
9月26日 | 2カ所新設、部内教会123カ所となる |
- 『朝倉大教会史(第1卷)』(昭和61年)