平野トラ ひらのとら
安政元年(1854)8月8日、大和国添下郡洞泉寺町(現・奈食県大和郡山市洞泉寺町)で、貸座敷業大和川楼を営む、平野平野富蔵、みすの長女として生まれた。
明治13年(1880)8月6日、「恩智楢」として近隣に名の通った河内の博徒、森楢蔵が、トラの婿養子となる。
トラの弟である巳之祐が、死亡したので、富蔵はトラの夫として楢蔵しかいないと、懇願していたのである。
楢蔵36歳、トラ27歳のときである。
明治17年夫の楢蔵が40歳の頃より、神経病で苦しみ始め、大阪の病院へ入院した。
病気は一向によくならず、遂に退院して、自宅で療養することになった。
明治18年の秋、森清次郎が、病気見舞いにきて、天理王命の信仰をすすめた。
楢蔵、トラ夫婦とも初めは聞き入れなかったが、清次郎の熱心さに動かされ、まあ信心してみようか、ということになった。
「なむ天理王命」と唱えるだけであったが、病気は次第に快方に向かった。
よくなると、再び、博打を打ちに河内国服部川村にいった。
楢蔵は、ここで突然卒倒したのである。
明治19年2月(陰暦松の内)のある日のことであった。
教興寺村の講元・田中藤七宅で、講社の人々が寄り集まって世間話をしていた。
そこへ、森清次郎が駆けつけ、楢蔵の「お願いづとめ」を頼んだ。
おつとめにかかる者は、神饌物を献じ、斎戒沐浴して、3度つとめるのだが、これからつとめにかかるというとき、4時間もの間息が絶えていた楢蔵が、息を吹き返した。
おつとめの人々は勇みたち、3度のおつとめが終わる頃には、楢蔵は小躍りしていたという。
翌朝、楢蔵、トラ夫婦は、子分の長三郎に付き添われて「おぢば」に帰り、お礼を申し上げ、ご恩報じを誓ったのである。
同じ年の夏、布教のために家業を廃し、夫婦とも心を定め、「教祖(おやさま)のことを思えば、我々、三日や五日食べずにいるとも、いとわぬ。」と決心した。
楢蔵は、単衣1枚、妻のトラは、浴衣1枚きりになって、おたすけに廻っていた。
その頃、「おやしき」へ帰ると、教祖が、
「この道は、夫婦の心が台や。夫婦の心の真実見定めた。いかな大木も、どんな大石も、突き通すという真実、見定めた。さあ、一年経てば、打ち分け場所を許す程に。」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』189話「夫婦の心」)
との言葉を下されたという。
明治19年陰暦8月のある日、中山眞之亮初代真柱は、梶本、前川、橋本の3人を随行として、洞泉寺の自宅を訪問、自ら祭主となって、親神を祀り込まれ、その晩は1泊、翌日、集まった信者に教理を仕込まれた。
そのとき、初代真柱は、講名を「天龍講」と名付けた。
明治21年、楢蔵、トラ夫妻に対し「夫婦一つの心に定めて貰いたい」(7月15日)と「おさしづ」があり、その後、トラは、8月23日「おさづけの理」を拝戴している。
そして、この年の12月11日、天龍講を母体として、郡山分教会が設立された。
明治32年12月22日、45歳で出直した。
- 天理大学おやさと研究所編『改訂天理教事典(教会史篇)(天理教道友社、1989年)
- 高野友治先人素描』(天理教道友社、1979年)
- 『郡山大教会史(その一)』(天理教郡山大教会、1959年)