増野正兵衛 ますのしょうべえ
嘉永2年(1849)3月1日、現在の山口県萩市において、長州萩藩士増野庄兵衛を父に、その妻ふさを母として生まれ、幼名を友次郎といった。
武士の子として藩校明倫館で学問と武術を仕込まれ、頭脳明晰、柔術にすぐれていたといわれるが、12歳にして城内の記録係に取り立てられ、13歳で明倫館の書物係に任ぜられた。
幕末の激変の中で青年期を送ったが、15歳頃には倒幕軍に加わり、明治2年(1869)に天皇の親衛隊員に選ばれて東京に移住した。
間もなく護衛兵を辞職し、鉄道に関する理論や知識を学んで明治5年、日本最初の鉄道開通とともに鉄道員として再出発。
早くも明治11年には神戸三宮駅の助役に昇進した。
しかし、この頃から持病の脚気が再発し、その上妻いとが「そこひ」を患うという状態になって、鉄道を辞職し、三宮元町に洋品店「東京屋」を開いて自営に転身した。
商売の繁盛とは裏腹にいとの病状は医薬の効なく悪化して失明寸前になった時、ふと幼ななじみの吉田蝶子を訪ねたのが入信の動機となった。
夫婦が心を決めて親神の話を聞き、お願いしてもらうと、翌日には妻が視力を快復し、正兵衛の病状も好転しはじめた。
驚喜した二人は熱心に信仰しはじめ、20日程後には二人とも全快したのである。
明治17年2月のことであった。
翌月神戸の信者達と共に初めておぢば帰りした正兵衛は初対面の教祖(おやさま)から、
「正兵衛さん、よう訪ねてくれました。いずれはこの屋敷に来ないかんで。」
と言葉をかけられ、身の震える感動を覚えたという。
その後、正兵衛は家業を妻に委せ切り、何かと言えば、おぢばに帰って教えを受け、儲けをつぎ込んで教会公認運動を助けた。
明治20年5月4日にはおさづけの理をいただき、明治22年12月31日には神戸を引き払って元の屋敷に住み込むことになる。
この時、結婚15年目にして妻は懐妊し、長男道興を安産した。
明治21年に教会本部が設置されると、彼は本部会計兼派出係に任ぜられて教会本部のおぢば移転や、年祭活動の経理運営に尽力した。
さらに明治29年に発令された内務省訓令下の厳しい状況下で不振に陥った中河、敷島、日本橋、兵神等の教会の教勢再興に力を尽くした。
また、明治34年に教区制度が発足するや第一教区の担当者となり、教区内の仝教会を巡回して、第一線で苦心する教友を励ましながら自らもにをいがけ・おたすけに励みつつ布教力増進に努めた。
そのような努力の中で大正3年(1914)11月21日、65歳をもって出直した。
正兵衛がこの世の限りとした所は巡教地大阪の教務支庁であった。