桝井伊三郎 ますいいさぶろう
嘉永3年(1850)2月12日、大和国添上郡伊豆七条村で農を営む伊三郎、きくの三男に生まれた。
幼名を嘉蔵といい、ついで伊右衛門と呼ばれ、父伊三郎が明治元年(1868)に出直したのち、伊三郎を襲名した。
19歳の時であった。
伊三郎の入信は元治元年(1864)であるがその前年、母は夫が喘息で難渋しているため、あちらこちらの神仏に願いをかけていたが、よくならなくて、困り果てていると、隣家で傘屋を営んでいる矢迫仙助から、庄屋敷の神さんに参るよう勧められた。
早速庄屋敷へ急いだ。
そして教祖(おやさま)に初めて会った。
教祖は、きくを見るなり
「待っていた、待っていた。」
と言葉をかけてくださった。
教祖の温かくやわらかな心に、きくはいっぺんに心を引かれた。
夫の病気は、ほどなく治まった。
翌元治元年、伊三郎15歳のとき、母きくが病気になった。
それ以前にも、母とともに教祖のところへ参拝していたところから、母の苦しむ姿を見るに見かね、夜の明けるのを待ちかねるようにして、教祖のもとへ願いに行った。
すると教祖は
「せっかくやけど、たすからん」
と言われた。
伊三郎は家へ帰った。
家では母が苦しそうにしている。
それを見ては母をたすけてくださいと、再び教祖のもとへお願いに行った。
すると教祖は
「気の毒やけどたすからんなあ」
と言われる。
伊三郎は家に帰った。
家では母が苦しんでいる。
それを見ては、たすけてくださいと、三たび、教祖のもとへお願いに行った。
日は暮れて夜になっていた。
すると教祖は、
「子供が親のために心を運ぶ、これが真実や、真実なら神が受け取る」
と言われた。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』16「子供が親のために」参考)
伊三郎は転げるようにして家に帰った。
数日後、母の病気は、すっかり直ってしまった。
桝井家では、入信の日を元治元年7月14日としている。
明治7年(1874)6月18日の夜に「神楽本勤」のとき、教祖よりのお言葉で「月よみのみこと」の座についた。
それ以後、かんろだいを囲んでの本づとめのときは、常に「月よみのみこと」の役割を受け持つことになった。
同年12月26日、教祖は初めて赤衣を召されて、みずから、「月日のやしろ」であることの理を、形で鮮明にされるが、同日、4人の人にさづけを渡された。
伊三郎は「かんろだいてをどりのさづけ」を頂いた。
この日が、身上たすけのためにさづけの理を渡された始まりとなった。
明治9年春の初め頃、伊三郎は中山秀司のお供をして、堺県庁へ出かけて、蒸風呂と宿屋業の許可をもらってきた。
この営業が始まると、伊三郎は風呂たきや宿屋の番頭もした。
来客は神様のお話を聞きに来る人が主で、朝と晩ほおかゆ、朝帰る人たちだけはご飯を食べられたという。
また、この年8月17日、大和国川東村小坂へ辻忠作、仲田儀三郎などと、雨乞づとめに出張している。
さらにこの年、教祖の仲人で西尾ナラギク(桝井おさめ)と結婚した。
挙式は扇子一対をかわすという簡単なものだった。
明治16年8月15日、三島村での雨乞づとめに加わったというので、50銭の科料となった。
明治19年2月18日、教祖最後のご苦労の節で、櫟本分署で15日間拘引となったが、伊三郎も10日間拘引された。
明治20年2月18日(陰暦正月26日)午後のおっとめに、伊三郎はかぐらとてをどりをつとめた。
明治21年、天理教会所設置が東京で認可されるが、この設置とともに、天理教会本部理事を命ぜられた。
またこの年7月には伊豆七条村から引き移り、本部のうちに一戸建てを建てて住まいした。
明治35年7月の「教会取締条規」の制定によって全国を10教区に分けて取締員が任命されるが、伊三郎は第7教区(岡山、広島、鳥取、島根、山口)と第8教区(徳島、香川、愛媛、高知)を担当、同40年5月の「教会組合規程」によって、組合長となり岡山、香川、徳島の各県を担当した。
明治41年12月14日教庁録事、本部員を拝命。
明治43年7月1日出直した。61歳。