天理教人名辞典 宇野善助 うのぜんすけ

宇野善助 うのぜんすけ

天保7年(1836)10月25日、近江国野洲郡野洲村(現・滋賀県野洲郡野洲町野洲)に宿屋清水屋を営む宇野五郎助の二男として生まれた。

7歳で寺子屋に入る。

13歳の時、初級を代講するが、父が出直し、退塾。

翌嘉永2年(1849)3月、京都の蝋燭製造種油販売「若狭屋」へ丁稚奉公に出た(14歳)。

文久3年(1863)、若狭屋の娘佐々木さわの婿養子となり分家。

元治元年(1864)、六角通寺町西入ル八百屋町で蝋燭油業両替貸車業「若善」を開く。

長男直太郎が生まれたが、さわの出直し後、宇野に復籍。

明治2年(1869)、同郷の三久保美砂と再婚、店を続けた。

翌年にこん、5年に又三郎と生まれ、その後も2年おきに子供が生まれている。

明治14年10月下旬、貸車の心棒の修理に、深谷源治郎の営む鍛冶源を訪れたが、説教拝聴に誘われ、翌晩、2人で出掛けて、明誠社講元奥六兵衛から「元初まりの話」を開いた。

翌明治14年11月1日朝、実印を持参して、明誠社に加入(46歳)。

数日後、深谷らと3人で、おぢばに参拝。

以来、暇を見ては明誠社で教理を聞く。

明治15年11月、妻や子供らとおぢばに帰り、教祖(おやさま)にお目通り。

「ここは喜ぶ所や」「三代目は、清水やで」との言葉を頂いた。

明治17年3月下旬、深谷ほか計5名とともに明誠社を退講して、斯道会を結成。

深谷と2人でおぢばへ行き、「おさしづ」を仰いでいる。同年4月、月日の盃を拝戴。

また明治19年5月14日には、赤衣を拝戴。

明治17年8月、直太郎に家督を譲り、又三郎とともに布教に歩く。

明治18年7月、美砂出直し。

明治20年4月、長男直太郎が出直し。

翌月、若善を廃業し、以後布教に専念した。

この年11月12日、おさづけ拝戴。

善助は、越乃国支教会の会長なども勤めたが、常に斯道会の人であった。

明治18年9月、斯道会副議長に選ばれ、明治22年1月には斯道会講社総取締、22年河原町分教会設置後は分教会理事を勤めた。

明治25年12月に初代真柱が一派独立運動につき上京の際、深谷会長とともに上京。

この運動は斯道会から上申したもので、善助は、明治23年に深谷徳次郎と共に仲介者の芝亭実忠を訪ね、明治26年この運動の事後処理にも苦心した。

入信以来、琵琶湖南岸一帯を中心に歩いて講社結成にっとめていたが、明治23年頃には講杜の連合を進め、明治24年8月、越乃国支教会を設置し、その初代会長となった。

また、同24年10月、滋賀支教会を設置、その会長ともなる。

しかし、明治26年3月越乃国、また明治28年2月滋賀の会長を辞任、以後また河原町分教会理事のつとめに専念している。

明治29年4月、母親代わりで苦労したこんが結婚2年で出直した。

明治30年3月、又三郎結婚。

明治42年12月、又三郎が越乃国3代会長就任。

翌43年2月21、善助は出直した。数え75歳。