茨木基敬 いばらぎもとよし
安政2年(1855)、大阪の西成郡北野村の松本佐兵衛の二男として生まれる。
20歳頃に天満で乾物商を営んでいた親戚の茨木家を継ぐ。
明治15年(1882)、生来病弱だった娘が激しい痙れんを起こし、一命にもかかわりかねない容態となった。
この時、かねてより付き合いのあった知人を通して泉田藤吉を紹介され、天理教の信仰に入った。
熱心な布教活動によって不思議なたすけが次々と現れ、その結果、多くの人びとが信仰に入るようになった。
明治17年には天地組の講名を「おぢば」より頂いたのを機に、商売を止めて布教一筋の道を歩みだした。
明治21年に教会本部が設置されて、各地の講が教会となるなかで、天地組も明治24年に北分教会として再発足し、基敬が初代会長に就任した。
明治40年には、それまで北区の曽根崎新地にあった教会が手狭になったので東成郡生野村に移転した。
この教会移転が後の茨木事件と呼ばれる一連の異説問題の端緒となった。当時、付近の住民から教会を移転して欲しいと要望され、警察が仲介にくるようになるに至り、やむなく基敬はこれに期日を切って移転を約束した。
急拠の移転にもかかわらず、どうにか約束の期限を守って移転がほぼ完了したのと時を合わせるかのように、旧教会地を含む曽根崎、天満、福島一体が大火に見舞われた。
これを見た信者たちは、会長はこのことを予見していたから移転をせかされたのだと口々に語り合い、基敬神格化の土壌が形成されていった。
明治42年には教勢の伸展にともない大教会に昇格し、基敬は北大教会長となり明治44年、教会本部の本部員になっている。
この前後より、基敬に神様がお下がりになるという噂が広がるが、それには彼の信仰指導のもとで不思議なたすけが相次いだというだけではなく、夜中に筆をとって悟りを信者に伝える彼の行動にも一つの原因があった。
その頃は、明治40年に本席が出直した直後であり、神意を直接に伺うことができなくなっていた時期でもあった
「おさしづ」という形で神意を聞き慣れていた信者たちには、基敬の与える信仰的な悟りは神意の表明そのものと映り、そこから基敬こそ「おさしづ」の継承者という誤解が生まれたのであろう。
基敬にそうした目論見(もくろみ)があったのか否かは判然としないが、増野道興(鼓雪)は基敬に本席の地位を得ようとした欲望があったと証言している。
この一点において、教会本部としても基敬の行動を信仰的な悟りの特異性の問題であるとして見過ごすことができなくなった。
その結果、基敬は大正7年(1918)に本部員を免職となった(茨木事件)。
大正10年に「おぢば」を去って奈良県生駒郡富雄村で暮らしていたが、昭和4年(1929)10月29日に出直した。享年75歳。