板倉槌三郎 いたくらつちさぶろう
槌三郎は、万延元年(1860)2月18日、河内国高安郡恩智村(現、大阪府八尾市恩智)に板倉家の二男として誕生。
板倉家は旧家で、代々農業を営む素封家であった。
故に、彼に将来を期待しており、8歳のころより12年間、習字、算術、漢学などの教育を受けている。
明治8年(1875)、槌三郎16歳のとき、兄の難病で一家の一大事をまねくことになる。
医療の限りを尽くしたが、効はなく、いよいよ神仏にたすけを求めていくことになった。
生来、素直で心のやさしさと強い責任感を持つ槌三郎は、利益の名高い神仏を訪ねて、所々方々を回ることになったが、一向に利益は望めなかった。
失意落胆の日々をおくる中で耳にしたのが、大和の山辺郡庄屋敷の教祖(おやさま)のことであった。
槌三郎は溺れる者は藁をもつかむ思いで、教祖を訪ねたのである。
ときに、明治9年8月。槌三郎17歳。ここに、信仰の第一歩がしるされたのである。
教祖のもとへ足を運んだ槌三郎は、よそでは味わうことのできない不思議な信仰的魅力にひかれて、足しげくおぢば(教祖のおやしき)へ通った。
度重ねて教理を聞くことにより、この神様の教えこそ真実の教えであると確信するに至り、信仰の道を歩む決心をした。
17歳という若さで、教理に感動して入信したという。
その後、槌三郎は熱心に信仰を続け、明治21年(1888)8月、29歳でおさづけの理を拝戴し、明治41年12月49歳で本部員となっている。
槌三郎は、初代真柱と2代真柱の時代にわたり、神一条に徹しきる信仰の強さ堅さをもって、おぢばひとすじに勤めぬいた。
年とともに重い任に就くこととなった。
その主なものは次のようである。
大正普請(大正3年完成)の神殿普請掛、教祖40年祭活動時のおやしき拡張、天理教墓地の拡張、信者詰所の移転の任など。
さらに、大正14年(1925)、経理部長となり、実質的な普請掛主任として、教祖50年祭活動の昭和普請(昭和9年完成)の任にあたった。
一方、問題をかかえた教会を治めるために教会本部派遣として、中河、平安、水口などの教会の会長、そのほか、教会の事情解決のための世話人、東北、北海道の教区長として20年近くも天理教の発展の上に真実を尽くしたのである。
槌三郎の信仰の一端をのぞくと、教祖の教えを素直に実践し、とくに、物を大切に生かして使う生き方であった。
生活は実に質素で、衣、食、住はもとより、何ごとにもたいそう倹約をし、少しでもお供えをしたという。
「日々を楽しんでつとめておいたら、さあ金といえば金、衣類といえば衣類、神さまは難儀不自由はささぬとおっしゃるから、日々に理を積んでおかにやあかんで。」
と、自ら実践するとともに人びとを導いたといわれる。
槌三郎は、教会本部の職務を命がけで勤めたが、そのことを象徴するかのように、山名大教会へ巡教中に78歳で出直した。
昭和12年(1937)2月26日のことであった。