天理教人名辞典 中山眞之亮 なかやましんのすけ

中山眞之亮 なかやましんのすけ

初代真柱。

慶応2年(1866)5月7日(陽暦6月19日)、梶本惣治郎と教祖(おやさま)の三女おはるの三男として、大和国添上郡轢本村(現、天理市轢本町)で生まれた。

教祖は、おはる懐妊中より「おはるには、前川の父の魂を宿し込んだ。しんばしらの眞之亮やで」(『稿本天理教教祖伝』66頁)と名前までつけ、眞之亮誕生後は絶えずお屋敷へ引き寄せ、将来「道のしんばしら」となるべく導いた。

なお、教祖の命名ながら、明治初年奈良県令の亮、衛門の廃止の布令により新治郎と改め、公的な書類は新治郎を用いたが、本人は眞之亮を通用した。

人々は、教長、本部長、管長などの役職名で呼ぶこともあった。

明治13年(1880)15歳の時、神意(ふ3:8-14,56,66-67)に従い中山家の人となる。

明治23年、秀司とまつゑの子であり、眞之亮にとって従姉妹にあたるたまへと結婚、玉千代・正善の2子を授かる。

眞之亮の生涯は、天理教団草創の時でもあり、天理教史そのままに波瀾万丈であった。

教祖をはじめ、お屋敷の人々への官憲の取り締まりが益々厳しくなりつつあった明治14年、中山家の戸主として、信者と官憲との間にあって種々心を砕いてきた、教祖の長男秀司の出直しにより、翌15年弱冠17歳にして中山家の戸主となった。

この年まつゑも出直したため、「道のしんばしら」としての責任を一身に受けることになる。

この頃、お屋敷に対する警察の取り締まりは職烈を極め、自身「此時分、多きトキハ夜三度昼三度位巡査の出張あり。……参詣人来らざる日ハ一日もなし、巡査の来らざる日もなし。」「眞之亮ハ、十五、十六、十七ノ三ヶ年位、
着物ヲ脱ガズ長椅子ニモタレテウツ/\ト眠ルノミ。夜トナク昼トナク取調べニ来ル巡査ヲ、家ノ間毎/\屋敷ノ角々迄案内スルカラデアル。」(「教祖様御伝」『復元』33号、『稿本中山眞之亮伝』20-21頁)と記している。

度重なる教祖への取り締まりは、公の許可を得ていないからであると、眞之亮を中心として教会設置公認運動が展開された。

明治18年には神道事務局(後の神道本局)直轄6等教会の設置が認められるが、依然地方庁の認可がおりなかった。

このような運動に対して、教祖は世界たすけのために、つとめの勤修を急き込まれ、「屋敷始まって以来」といわれる神と人間の問答の末、眞之亮の「命捨てゝもという心の者のみ、おっとめをせよ」の命にしたがい、明治20年陰暦正月26日つとめられた。

この時、教祖は現身をお隠しになられた。

「おさしづ」により存命の理を悟って、救済活動に拍車がかけられ、教えは各地に伸び広がった。

明治21年、教祖1年祭のふしを契機としてあらためて展開された教会設置運動では、自ら東京に出掛けるなど、活動の先頭に立って推進した結果、同年4月10日付けをもって東京府の認可を得た。

その後、7月23日には神意に基づいて本部をおぢばに移転し、つとめ場所の南側にぢばを取り込んだ神殿普請を10月に完成、11月29日開廷式を執行して内外に知らせ、翌30日には天理教会規約を発布して、教会本部の体制を築いた。

明治24年教祖5年祭、翌25年教祖墓地の改装を無事終え、明治29年、帰参する人々の宿舎として、分教会ごとの事務所(現信者詰所)の新築がなされ、盛大に教祖10年祭を執行した。

急速に発展する天理教に対して、恐れ妬むものもあり、新聞も椰捻雑言をもって報道するようになり、ついには政府による干渉となって現れた。

同年4月6日に発令された天理教の取り締まりに関する内務省訓令第12号は、「男女混清、医薬妨害、寄付強制」の誤解に基づく3点についての指摘であった。

祭儀と救済の、いわば信仰の根幹にかかわることであり、前年には自身の身上の障りを通じて「万事神一条の道の理を治めてくれ」(さ28・5・13)との「おさしづ」を頂いているだけに、その対応に苦慮した。

「おさしづ」を仰ぎ、主立ったものを寄せての会議を重ねて、一部おっとめの中止など苦汁の決断をした。

また、時を同じくして安堵、前橋の両事件が起こったが、神意を伺い、これまた眞之亮の決断によって、愁眉を開くことになった。

教義も、従って目標とするところも違う神道本局に所属していることは、諸般不都合であった。

一派独立すべく運動に着手、別派承認の神道管長の添書を得て、明治32年8月9日一派独立請願書を提出した。

しかし、この第1回日の請願は、願書不備の理由をもって取り下げることとなり、以後、34年第2回請願、37年第3、4回と、そのつど体制を整え、書類を整備して請願を行ったが、いずれも取り下げる結果となり、難航した。

明治41年第5回目の請願書を提出、自身上京して奔走し、その甲斐あって同年11月27日付けをもって漸く認可を得た。

同時に提出していた「天理教教規及規程」も28日付けで認可され、天理教管長に就職、教会本部に天理教庁を開設した。

独立請願中の明治39年、教祖20年祭を無事つとめ終え、翌40年には永年の念願であった神殿普請が、「おさしづ」によって始められた。

同年6月9日には、「おさしづ」をもって神意を伝え、おきづけを渡される役割をしていた本席の出直しのふLに遭遇した。

しかし、本席の身上を通じてのお仕込みにより、普請を通じてのたすけふしんであり、心のふしんであることをあらためて確認して準備にかかり、43年10月27日起工式を挙行、大正2年(1913)12月25日竣工をみた。

併せて建築していた教祖殿は、翌3年4月に落成し、同24日、遷座祭を執行して、いわゆる大正普請が完工した。

この神殿普請と、先の教会本部設立、一派独立を挙げ、初代真柱の三大業績といわれている。

この他、明治21年『みかぐらうた』本を公刊し、自らその解釈書を著し、教祖の伝記の編纂・執筆、別席順序および台本の制定(さ31・5・12)、明治36年『天理教教典』(明治教典)の編纂とその公布など教義の整備を行い、明治24年『みちのとも』を発刊して文書伝道の先駆となるとともに、婦人会を創立(さ31・3・25,26,28,30)して、救済活動における女性の役割の重要性を明らかにし、その活動の場を開いた。

また明治40年「海外布教規程」を発布して、本格的な海外伝道に着手、同年教会組合事務所(後に教務支庁)を設けて、教会の地域における横の連携をつくり、世界だすけの歩みを進めた。

さらに明治33年天理教校、明治41年天理中学校を開校、明治43年養徳院を設立し子弟教育、福祉活動に力を注ぐなど、教団の今日の礎を築き、大正3年12月31日、49歳で出直した。