この記事は、教祖伝を読みながら閲覧して頂くと便利になっております。
ぜひ、そのような使い方もしてみてください。
第1章の拝読前に
この第1章「月日のやしろ」では、立教より1年前から起こる不思議な出来事から振り返り、教祖が天保9年10月26日、月日のやしろにおなり下さった経緯が書されたものです。
この章で学ばせて頂く事、すなわち、ひながたを辿る我々は、どのように私ごととして関わるかが重要になってきます。
もちろんのことですが、私達、拝読させてもらう側が「月日のやしろ」になるわけではないですが、
- 信仰を始めさせて頂く場合
- にをいがけ・おたすけをさせて頂く場合
- ようぼくとして旅立ってもらう場合
このような時にそなえてしっかりと学んでいきたいと思います。
また、最初の啓示のお言葉は、冒頭だけの意味にとどまらず、この道の本質的なところもおさえておりますので、そのあたりも特に学ばせて頂きたいと思います。
👇手元に教祖伝が無い方は、こちらをお使いください👇
第1章「月日のやしろ」用語集
やしろ・・・社。神をまつってある建物。神をまつった一定の場所。
修験者…日本古来の山岳信仰に仏教が習合した修験道を奉ずる人。山伏。
百灯明…多くの燈明を神仏に供える燈火のこと。
寄加持…加持とは、呪文を唱えながら仏の助け・保護を祈り、病気や災難を取り除くこと。
護摩…密教で火炉を設け、乳木などを焚き、不動明王などの本尊に祈ること。
四百目…この「目」は匁のことで、江戸時代には銀も重さの単位、2019年現在の価値に換算すると、約675,709円となる。
亥の子…西日本で旧歴十月(亥の月)の亥の日に秋の収穫を祝い、また無病息災を祈る祭。
長滝村…現奈良県天理市長滝町
だめの教え・・・最終究極の教えと言う意味。
天保9年10月26日・・・西暦1838年12月12日にあたる。
啓示の解説
啓示
「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」
教祖伝(第1章月日のやしろ)より
まず最初に、啓示の意味から解説していきたいと思います。
この啓示は、天理教の歴史において、初めて神様の口からあらわれ出た最初のお言葉です。
この啓示を解説にあたって、立教の三大いんねんを知っておく必要があります。
立教の三大いんねん
- 教祖魂のいんねん
- 屋敷のいんねん
- 旬刻限の理
この3つが立教の三大いんねんだとお聞かせいただきます。
元の神・実の神
そもそも、
「元の神・実の神」とは一体どんな神様なのか?
というような疑問を持つかと思われます。
これは修験者の中野市兵衛さんもとまどったわけです。
この表現の大きな意味をしては、
- これまで人間が知っているようなありきたりの神ではないということ
- いい加減の神が降りてきたわけではないということ
- もう抜き差しならない神であるということ
👇こちらでも「元の神・実の神」に言及しておりますので、ぜひご覧ください👇
屋敷にいんねんあり
2つ目の「屋敷のいんねん」では、ご家族や夫善兵衛様としては、
「なにも中山家に降りて来られなくても、他にも立派な家があるじゃないですか、、、」
と言い訳をしたいのです。
しかし、神様からすれば、
「この屋敷にいんねんあり」
と、絶対的な言い方をなさっているわけです。
ここは非常に大事な処でありまして、
先生、、私にそんなこと言わんで、あの人に言いなさいな~。
と信者さんが言う場合に
何を言うてるんですか、他人のことじゃないんですよ。
と言えるような確信を持った言葉が重要じゃないか?ということにも通ずるわけです。
世界一れつたすけ
私たちがにをいがけ・おたすけに出させてもらった時に、身上の方とお出会いすることもあるでしょう。
このようなおたすけの場合、身上がたすかることを目的としてしまいがちです。
ここで注意しなければならないのは、教祖は腰の痛み、夫善兵衛様は目が痛くて開けられない、秀司様は足が痛くて動けない、いわば一家が壊滅的な状況なのであります。
しかし、神様の目的は、表面的な一家の身上のおたすけではなく、世界一れつをたすけるのが目的なのであります。
私たちのにをいがけ・おたすけに歩かせて頂く場合にも、その人の病気をおたすけするのではなく、世界一れつをたすけるために、”どうしてもこの人をようぼくにしたい”というようなをやの目的の方をハッキリしていなければならないのです。
秀司様の足痛についても、おふでさきにこのように記されています。
みのうちにとこにふそくのないものに 月日いがめてくろふかけたで
ねんけんハ三十九ねんもいせんにて しんばいくろふなやみかけたで
おふでさき第12号118・119
とあるように、ほこりの心があった訳でなく、神様の思惑は、この身の悩みをみせて、これを機縁として「月日のやしろ」にもらい受けてもらいたいわけなのです。
このような根本的なおたすけの姿勢というものが、この最初の啓示のお言葉の部分からも感じ取ることができるのです。
- おたすけは、病をたすけるのが目的ではない
- 目的は世界一れつをたすけるために”ようぼく”になってもらうこと
神のやしろ
「神のやしろ、月日のやしろ」ということは、親神様が教祖をお住まいになされたという考え方です。
たん/\とよふぼくにてハこのよふを はしめたをやがみな入こむで
このよふをはじめたをやか入こめば どんな事をばするやしれんで
おふでさき第15号60・61
👆おふでさきの文字起こしもしております👆
このおふでさきからも分かるように、我々は、もちろん「月日のやしろ」ではないのですが、”ようぼくにては神が入り込み、そして、入り込んだならどんな不思議な働きがあるか分からない”という思召なのです。
このことを考えた時に、「どうすれば親神様に入り込んで頂けるようぼくになれるか?」という疑問が湧いてきます。
教祖は実際に、親神様が入り込んでおられましたが、たとえ、教祖が元なる母親の魂であっても、教祖自身がほこりの心がたくさんあれば、親神様は教祖をやしろにされたかどうかは分からないわけです。
このことから思案しますと、私達に心のほこりを払うように急き込まれるのは、”神様に入り込めるような、ほこりのない住まいにならして頂きなさい”という意味も含まれているのではないでしょうか?
東洋宗教観とお道の教えの違い
東洋の宗教観というのは「悟り」の宗教なのです。
例にあげると、インドのお釈迦様です。
お釈迦様は、世の中をじっと見た時に、
なぜ人間の世界はこんなにも苦しいのだろうか?
生きていること自体が苦しい、そして病んだり、年寄っていく、死んでいかなきゃならん、生老病死の苦しみはなぜあるのか?
このようなことをお釈迦様は探求されたわけです。
これらの問題を解決するために、思案を巡らせ、一生懸命に修行をされて、”悟り”を開かれるのです。
また、中国の孔子や孟子の儒教も全部、人間の”悟り”なのであります。
ここで「お道」と基本的に違うのは、人間の方から求めていくものではなく、神様の方から教えてもらうことなのです。
このたびハ神がをもていあらハれて なにかいさいをといてきかする
おふでさき第1号3
この天理教の神様は、神様の方から表に現れたわけであります。
ですので、東洋の宗教観との根本的な考え方の違いとしては、人間の方から求めていく道ではなく、神様の教えを素直に聞き通らせていただくことが基本になってくるのであります。
- 東洋の宗教観は”悟り”である
- 天理教は神様の教えを素直に実践すること
イエス・キリストとおやさまの違い
キリスト教の聖書を読んでいると、教祖のお立場とイエス・キリストの立場とでは、ひとつ大きな違いがあります。
教祖とキリストの立場の違い
キリスト…神の子としての教祖の立場
おやさま…この世と人間を創造した神様がやしろとされた
ここにどれほど大きな立場の違いがあるか?というのも、私達、道の者として心に治めておくべき大切なことです。
中山みき教ではない
元五十年前より始まった。元聞き分けて貰いたい。何処其処で誰それという者ではない。ほんの何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教えを説くという処の理を聞き分け。何処へ見に行ったでなし、何習うたやなし、女の処入り込んで理を弘めるところ、よう聞き分けてくれ。 (明治21年1月8日)
おさしづ
これは、高安大教会初代会長様である松村吉太郎先生に頂いたおさしづです。
中山みきという婦人は、特別に学問を習ったわけでもなければ、どこかで習ったことでもなく、ごく普通の主婦であるということ。
さらには、考えたり悟ったりした道でもない。
この世と人間を創造した元の神・実の神様が入り込んで始めた道であることをよく理解してもらいたいというおさしづなのです。
ですので、この道は「中山みき様」という教えではなく、「親神様」の教えであるということのなのです。
たすけ主は親神様
実践的なにをいがけ・おたすけが、目に見えて実がなってきますと、
わしがあの人をたすけてあげたんや!
私は、あの先生にたすけてもろたんですぅ。
このようなたすけ主が「人間」になってしまうと、本来の教えが弘まらず、間違った人間思案が弘がってしまいます。
これを二代真柱様が非常にご注意下さっております。
人間の体験を通しての信仰が伝承されて、伸びていく、それは大切なことだ。けれども、教祖のひながたとしてお残し下され、親神様がお教え下された教えを本当に見つめるためには、人間の体験がかえって邪魔になる場合がある。
私たち人間は、よく体験だけで物を言ってしまいます。
しかも断定した言い方をする場合がありますが、教祖のひながたを通したところに根拠を置かしてもらわなければならなのです。
なぜなら、たすけ主は「人間」ではなく、「親神様」であるからです。
成程と思える日
元の神の思わく通りにするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれたことならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家粉も無いようにする。
天理教教祖伝第1章「月日のやしろ」
教祖伝の中には、このように、神様から非常に厳しいお言葉もあります。
これは、脅しのように思う方も居られるかもしれませんが、この神様のお言葉というのは、千に一つも間違いがないとうい点から考えると、神様の思惑に素直に受けない場合どうなるのかをお示し下されているのです。
さらに、親神様は、
誰が来ても神は退かぬ。今は種々と心配するは無理でないけれど、二十年三十年経ったなれば、皆の者成程と思う日が来る程に。
天理教教祖伝 第1章「月日のやしろ」
と、このようなお言葉も下されているわけです。
やはり、人間からすれば長い年月ではありますが、私たちが心の底から成程と納得できるのは、二十年、三十年経たないといけないのです。
これは、信仰の道中にはさまざまな大変なことがあっても、いつか必ず成程と思う日が来るので、その間は気長く「たんのう」することが大切だということをお教えいただいているのではないでしょうか?
第1章「月日のやしろ」まとめ
- 第1章「月日のやしろ」は、教祖が天保9年10月26日、月日のやしろにおなり下さった経緯が書されたもの
- 神様の目的は、世界一列をたすけること
- この道は、神様の教えを素直に聞き通らせていただくことが基本である
- この道は「中山みき」の教えではなく、「親神様」の教えであるということ
- たすけ主は「人間」ではなく、「親神様」である
- 成程と思える日は必ず来るので、その日まで「たんのうの心」を忘れずに通る
立教の三大いんねん
- 教祖魂のいんねん
- 屋敷のいんねん
- 旬刻限の理
教祖とキリストの立場の違い
キリスト…神の子としての教祖の立場
おやさま…この世と人間を創造した神様がやしろとされた
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