第二章 生い立ち 天理教教祖伝

第二章 生い立ち

 教祖中山みきは、寛政十年四月十八日朝(註一)、大和国山辺郡三昧田に生まれられた。

 父・前川半七正信は、領主から無足人に列せられて名字帯刀を許され、大庄屋をも勤め、母きぬは、同村長尾家の出で、淑やかな人柄の中にも、特に針持つ技に秀でて居た。

 教祖は、三歳の頃から、なさる事が他の子供と異って居たので、近所の人々も、人並すぐれた珍らしいお子やと言いはやした。六歳の頃には、針を持ち始め、糸紡ぎをまね、網巾着を編み、糠袋を縫うては、好んで近所の子供達に与えられた。

 七歳の時には、近所の子供が泣いて駄々をこねて居るのを見て、自分が親から貰うた菓子を与え、その泣き止むのを見て喜ばれた。八、九歳には、忙しい秋の収穫時など、近所の小さい子供達を遊んでやられたので、その親達も、教祖のなされ方に感心せぬ者は無かった。

 手習いの手解きは、父親から受けられたが、九歳から十一歳まで、近村の寺小屋に通うて、読み書きなどを習われた。

 針仕事は、師匠につく事なく、母の膝下でひとりでに上達されたが、一度見たものは、そのまま型をとって細工物に作り、十二、三歳の頃には、大巾木綿を裁って、思うまゝに着物を仕立てられ、機織りも、人並優れて織りこなされた。又、信心深い家風の中に育つうちに、いつしか習い覚えて浄土和讃を暗誦されたのも、その頃である。

 聡明で器用な生付きの上に、何でも熱心に習い覚えて万事堪能であられ、素直な親孝行の方で、いつも喜んで母親の手助けをなされた。

 庄屋敷村の中山家へ嫁いで居た叔母きぬが、姪の人並優れた天分を見込んで、是非、伜善兵衞の嫁にほしいと懇望した。両親からこの話を当人の耳に入れた処、生来身体が余り丈夫でない処から、浄土に憧れ、かねて尼になりたいと思われて居た頃の事とて、返事を渋って居られたが、両親から、嫁して夫に仕えるこそ清浄な婦道である、と、懇ろに諭される言葉に納得して、

「そちらへ参りましても、夜業終えて後は、念仏唱える事をお許し下さる様に。」

との希望を添えて、承知された。

 かくて、文化七年九月十五日(註二)、振袖姿で駕籠に乗り、五荷の荷を持って、庄屋敷村の中山家の人となられた。時に、教祖十三歳であった。

 嫁がれた教祖は、両親にはよく孝養を尽し、夫にはよく仕えて些かも逆らうこと無く、一家睦じく楽しく暮された。舅から、そなた髭をよう剃るか。と、尋ねられた時に、剃刀と砥石を持ち出し、起用に剃刀をあわせて髭を剃られたので、舅は、何とまあ器用な。と、大そう喜んだ。

 衣服髪飾りなど、すべて質素で地味なものを好まれ、身なりには少しも頓着なさらなかった。十四歳で里帰りされた折には、着物は派手な振袖であるのに、髪は三十女の結う両輪であったから、村人達は、三十振袖。と、私語き合うた。

 朝は早く起き、自ら先に立って朝餉の仕度にかかり、日中は炊事、洗濯、針仕事、機織りと一日中家事に勤まれたのみならず、農繁期の、田植え、草取り、稲刈りから、麦蒔き、麦刈りに到るまで、何なさらぬ事は無かった。後年、

「私は、幼い頃はあまり達者でなかったが、百姓仕事は何でもしました。只しなかったのは、荒田起しと溝掘りとだけや。他の仕事は二人分位働いたのやで。」

と、述懐されたように、男の仕事とされて居るこの二つの力仕事を除いては、農家としての仕事は何一つとしてなさらぬ事は無かった。

 その頃、近在では綿を多く作って居たが、綿木引きをしても人の倍も働かれ、一日に男は二段、女は一段半が普通と言われて居たのに、女の身でありながら二段半もお抜きなされた。機織りは、どのように込み入った絣でも、自分で考えて組み立てゝ、自由自在に織り上げられた。しかも、普通二日かゝるものを一日で織り上げられる事も度々あった。

 その上、親族知人や隣近所の気受もよく、家においた人々には、いつも優しい言葉をかけて労わり、仕事休みの時などは、自ら弁当を作って遊山に出してやるなど、到れり尽せりの行き届き方であった。両親もこの様子を見て、十六歳の年には、全く安心して所帯を任せた。

 こうして家事に丹精し家業に励まれる一方、時たまの説法聴聞や寺詣りを無上の悦びとなされ、文化十三年春、十九歳の時、勾田村の善福寺で五重相伝を受けられた。

 このように、何一つとして申分の無い嫁御であられたが、子供の遅いのが、ただ一つの気懸りであった。

 その頃、かのという女衆があって、善兵衞の寵をよい事に、日増しに増長して勝手の振舞いが多く、終には、教祖をないものにして、我が身が取って替わろうと企て、或る日の事、食事の汁のものに毒を盛った。

なにも知らず、これを召し上られた処、やがて激しく苦しまれた。家族の者は驚いて、懸命に看護の手を尽す一方、その原因を詮索すると、女衆の仕業であると分った。余りの事に驚き怒ったが、教祖は、苦しい息の下から、

「これは、神や仏が私の腹の中をお掃除下されたのです。」と、宥め容された。この寛いお心に触れた女衆は、初めて迷いの夢から醒め、深く己が非を詫びて真底から悔い改め、やがて自ら暇をとって身を退いた。

 文政三年六月十一日、舅善右衞門は六十二歳で出直した。

 教祖は、この年、冬の頃から懐妊になられ、翌四年七月二十四日、二十四歳で長男を産み、善右衞門と名付けられた。後に改名して秀司と名乗り、長く教祖と苦労を共にした方である。初めての子に、しかも男児を授かって、善兵衞の喜びは譬えるに物もなく、明るい喜びが家の中に溢れ、新婚の頃にもまさる楽しい日々が続いた。この秀司懐妊中には、身重の身をもいとわず、姑を背負うて屋敷内はもとより、近所の誰彼までも訪ねて孝養の限りを尽された。

 又、文政八年四月八日には長女おまさを、同十年九月九日には次女おやすを産まれた。翌十一年四月八日には、姑きぬが出直した。

 善兵衞は人一倍子煩悩で、井戸の蓋を閉め忘れて野良へ出掛けた時などは、子供を気遣うあまり、早速、引返して来て蓋をした。又、思やりの深い性分で、夏、田圃の水を見廻りに行っても、畦道に土龍の穴を見付けると、たとい、他人の田でも早速修繕に取り掛り、日の暮れるのも忘れる程であった。

 夫婦共に、朝早くから夜遅くまで家業に精を出された。次々に子供が授かり、母としての仕事が次第に忙しさを加えると、昼は乳呑児を背負うて一日中機に上り、夜は懐に入れて晩くまで針仕事にいそしまれた。

又、慈しみ深い方で、好んで他人をたすけられた。

 或る時、米倉を破って米を運び出そうとする者があった。男衆達はこれを見付けて取り押さえ、訴えよう。と、騒いで居たが、ふと目を醒まされた教祖は、人々をなだめて、

「貧に迫っての事であろう。その心が可愛想や。」

と、かえって労わりの言葉を掛けた上、米を与えてこれを容された。

 或る秋の収穫時に、作男を雇われたが、この男は、丈夫な身体にも拘らず、至って惰け者で、他の人がどのように忙しくして居ても、一向に働こうとはせず、除け者になって居た。しかし、教祖は、見捨てることなく、いつも、

「御苦労さん。」

と、優しい言葉をかけて根気よく導かれた。作男は、初めのうちは、それをよい事にして、尚も、怠け続けたが、やがて、これでは申訳ないと気付いて働き出し、後には人一倍の働き手となった。

 或る秋の末のこと、一人の女乞食が、垢に塗れた乳呑児を背負い、門口に立って憐みを乞うた。教祖は、早速、粥を温めて与え、着物までも恵まれた上、

「親には志をしたが、背中の子供には何もやらなんだ。さぞ腹を空かして居るであろう。」

とて、その児を抱き取って、自分の乳房を含ませられた。

 出産の度毎にお乳は十分にあったので、毎度、乳不足の子供に乳を与えられたが、三十一歳の頃、近所の家で、子供を五人も亡くした上、六人目の男の児も、乳不足で育てかねて居るのを見るに忍びず、親切にも引き取って世話して居られた処、計らずもこの預り子が疱瘡に罹り、一心こめての看病にも拘らず、十一日目には黒疱瘡となった。医者は、とても救からん。と、匙を投げたが、教祖は、

「我が世話中に死なせては、折角お世話した甲斐がない。」

と、思われ、氏神に百日の跣足詣りをし、天に向って、八百万の神々に、

「無理な願では御座いますが、預り子の疱瘡難かしい処、お救け下さいませ。その代りに、男子一人を残し、娘二人の命を身代りにさし出し申します。それでも不足で御座いますれば、願満ちたその上は私の命をも差上げ申します。」

と、一心こめて祈願された。預り子は日一日と快方に向い、やがて全快した。その後天保元年、次女おやすは四歳で迎取りとなり、翌二年九月二十一日夜、三女おはる、同四年十一月七日、四女おつねと相次いで生れたが、同六年おつねは三歳で迎取りとなった。同八年十二月十五日には、五女こかんが生まれた。

 後日のお話によると、願通り二人の生命を同時に受け取っては気の毒ゆえ、一人迎い取って、更にその魂を生れ出させ、又迎い取って二人分に受け取った、との事であった。

 その後も、慈愛は深く、施しは弘く、或は手織木綿を施し、或は白米を施されるなど、凶作、飢饉と相次いだ天保の頃には、施しは更に一層繁く且つ夥しくなった。

註一 寛政10年4月18日は、西暦1798年6月2日にあたる。

註二 文化7年9月15日は、西暦1810年10月13日にあたる。