第三章 みちすがら 天理教教祖伝

第三章 みちすがら

月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまにまに、

「貧に落ち切れ。」

と、急込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に到るまで、次々と、困って居る人々に施された。

一列人間を救けたいとの親心から、自ら歩んで救かる道のひながたを示し、物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽気ぐらしへの道が開ける、と教えられた。

教祖の言われる事なさる事が、全く世の常の人と異って来たので、善兵衞初め家族親族の者達は、気でも違ったのではあるまいか、又、何かの憑きものではあるまいか、と心配して、松葉を燻べたり、線香を焚き、護摩を焚きなどして、気の違いならば正気になれ、憑きものならば退散せよ。と、有らん限りの力を尽した。

善兵衞の役友達である別所村の萩村、庄屋敷村の足達、丹波市村の上田などの人々は、寄り集まって、中山の家は、何時行っても子供ばかり淋しそうにして居て、本当に気の毒や。何とかならんものかしら。憑きものならば、我々の力で何としてゞも追いのけよう。と、相談の上、連れだってやって来て、教祖に向い、私達が、今日から神さんを連れて戻って信心しますから、どうかお昇り下さい。と、繰り返し繰り返し責め立てたが、何の効めもなかった。

 世間の嘲りは次第に激しくなったが、その半面、近在の貧しい人々は、教祖の慈悲に浴しようと慕い寄った。教祖は、

「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。」

と、子供可愛い一条の思召から、ますます涯しなく施し続けられたので、遂には、どの倉もこの倉もすっきりと空になって了った。

こうして、家財道具に至るまで施し尽されて後、或る日の刻限話に、

「この家形取り払え。」

と、仰せられた。余りの事に、善兵衞も容易には承知しなかった。すると、教祖は、不思議にも、身上の悩みとなられ、二十日間食事も摂らず床について了われた。親族の人々を呼び集め、相談の上、伺うと、

「今日より、巽の角の瓦下ろしかけ。」

との事である。やむなく、前川半三郎と男衆の宇平の二人が、仰せ通り瓦を下ろしかけると、教祖の身上の悩みは、即座に治まった。

 それから十五、六日も経つと、又もや激しい身上の悩みとなられ、今度は、声も出なければ、耳も聞えない、目も見えない、という容体となられた。又々、親族を呼び集めて相談の上、親神の思召を伺うと、

「艮の角より、瓦下ろせ。」

との仰せである。これを聞いた親族の者は、神様は難儀さすものではない。それに、こういう事を言われるとは納得出来ぬ。早く退いて貰いたい。と、お言葉に従わなかった。すると、どんなに手当てをしてもその甲斐なく、教祖の身上は、益々激しく苦しまれた。親族の者は口々に、つまらぬ事、と愚痴をこぼしながらも、やむを得ずお言葉通りにしたところ、教祖の身上の悩みは立所に去った。

家を売るのは、何時の世にも容易ならぬ事である。まして、伝来のものを大切にするのが、何よりの孝道であると思われて居た当時にあって、村でも指折りの田地持ちであり、庄屋まで勤めた善兵衞にとっては、いかに親神の仰せとは言え、先祖代々伝わる家形を取り払えとは、全く穏やかならぬ話であった。

村では、中山の家へ、神様がお降りになって、家形を取り払え、と仰しやるそうな。何うも訳の分らぬ話じや。と、喧しい噂となり、それを耳にする親族・友人は、重ねての意見に代る代る重い足をはこんだ。

嫁入って来た女房に、家形を取り払え、と言われて、取り払いました。

と言うのでは、先祖に対して申訳あるまい。世間に対してあなたの男も立つまい。と、口を極めて激しく意見し、遂には、そんな事をして居ると、付合いをやめて了うが、よろしいか。と言う者さえあった。

こうして、日が、月が、そして年が経ったが、世の人の心は堅い氷のようで、誰一人として親神の教に耳を貸そうとする者は無く、一列たすけの業は遅々として捗らなかった。

 或る日のこと、突如として、

「明日は、家の高塀を取り払え(註一)。」

と、啓示があった。親族も友人も、そんな無法な事。と言って強く反対したが、親神はどうしても聞き容れなさらず、この双方の間に立って、善兵衞の立場の苦しさは察するに余りあった。

親神の思召に従えば、親族や友人の親切を無にせねばならず、さりとて、思召に従わねば教祖の身上は迫るし、その苦しまれる有様を見るに忍びないので、遂に意を決して親神の急込みに従い、高塀を取り払うた。

しかし、この事があって後、親族友人は不付合いとなり、村人達は、あの人もとうとう気が違ったか。いや、憑きものやそうな。それにしても、善兵衞さんは甲斐性なしや。と、寄ると觸ると好き勝手な嘲りの言葉を言い立てた。中には、随分と中山家の恩顧を受け、教祖の慈悲に甘えた人々までも、世間体に調子を合せて嘲り罵り、果ては一寸も寄り付かなくなった。

人の口はともかくも、戸主として、先祖に対する責任を思い、可愛い子供達の将来を思えば、一度は高塀を取り払いはしたものゝ、善兵衞にとって、眠れぬ夜が続いた。思い悩んだ末、善兵衞は、或る夜、教祖の枕許に白刃をかざして立ち、涙ながらに、世間の人には笑われ譏られ、親族や友達には不付合いとなり、どうすれば宜かろう。憑きものならば退いてくれ。気の違いならば正気になれ。と、迫った。このたゞならぬ気配に目を醒まされた教祖が、

「あなた何しておいでか。」

と、尋ねられると、善兵衞は、どうも、恐ろしゆうてならぬ。と、答えた。

或る時は、自らも白衣を着し、教祖にも白衣を着せて、生家の兄弟衆も立合いの上、仏前に対坐して、先ず念仏を唱え、憑きものならば早く退け。と、刀を引き寄せて厳しく責め立てた。この時、親神のお言葉があって、この世の元初まりから、将来はどうなるという先の先迄説いて、ほんに狐や狸の仕業ではない。真実の親神である、と、納得出来るように、懇々と諭された。善兵衞にとって、親神の思召は分らぬではなく、又かねてからの約束も思い出されて、一応は納得したものの、中山家にとっては実に容易ならぬ事態である。

教祖は、月日のやしろとして尚も刻限刻限に親神の思召を急込まれつつも、人間の姿を具え給うひながたの親として、自ら歩んで人生行路の苦難に処する道を示された。

或る時は宮池に、或る時は井戸に、身を投げようとされた事も幾度か。

しかし、いよいよとなると、足はしやくばって、一歩も前に進まず、

「短気を出すやない/\。」

と、親神の御声、内に聞えて、どうしても果せなかった。

月日にわどんなところにいるものも

むねのうちをばしかとみている (一三 98)

むねのうち月日心にかのふたら

いつまでなりとしかとふんばる (一三 99)

真実が親神の思召にかのうたら、生死の境に於いて、自由自在の守護が現われる。

 嘉永元年、教祖五十一歳の頃から、

「お針子をとれ。」

との、親神の思召のまにまに、数年間、お針の師匠をなされた。憑きものでも気の違いでもない証拠を示させようとの思召からである。

又、秀司も、寺小屋を開き、村の子供達を集めて、読み書きなどを教えた。

その頃、お針子の中に、豊田村の辻忠作の姉おこよが居た。その縁から、忠作の仲人で、嘉永五年、三女おはるは、櫟本村の梶本惣治郎へ嫁入った。

この間にも、人だすけのために、田地にまで手をつけて、施し続けられる折柄、嘉永六年二月二十二日(註二)、善兵衞は六十六歳を一期として出直した。人一倍愛情も濃やかに、親子夫婦の仲睦じく暮して来た一家の大黒柱、善兵衞の出直に遭い、家族の悲歎は一入深いものがあった。時に、教祖は五十六歳、秀司は三十三歳、おまさは二十九歳、こかんは十七歳であった。

善兵衞の出直に拘らず、その年、親神のお指図で、こかんは、忍坂村の又吉外二人をつれて、親神の御名を流すべく浪速の町へと出掛けた。

父の出直という人生の悲しい出来事と、世界たすけの門出たるにをいがけの時旬とが、立て合うたのである。

その日、こかんの一行は、早朝に庄屋敷村を出発して西へ向い、龍田村を過ぎ十三峠を越えて河内に入り、更に西へ進んで、道頓堀に宿をとり、翌早朝から、往来激しい街角に立った。

「なむ天理王命、なむ天理王命。」

元気に拍子木を打ちながら、生き生きとした声で、繰り返し繰り返し唱える親神の御名に、物珍らしげに寄り集まって来る人の中には、これが真実の親の御名とは知らぬながらも、何とはなく、清々しい明るさと暖かな懐しみとを覚える者もあった。こうして、次から次へと賑やかな街角に立ち、

「なむ天理王命、なむ天理王命。」

と、唱えるこかんの若々しい声、冴えた拍子木の音に、聞く人々の心は晴れやかに且つ和やかに勇んで来るのであった。

その頃、長女おまさは、縁あって豊田村の福井治助へ嫁いだ。

かねて、買手を捜して居られた中山家の母屋も、望む人があって、いよいよ売られる事となった。母屋取毀ちの時、教祖は、

「これから、世界のふしんに掛かる。祝うて下され。」

と、仰せられながら、いそいそと、人夫達に酒肴を出された。人々は、このような陽気な家毀ちは初めてや。と、言い合った。(註三)

これより先、教祖四十四歳の時、妊娠七ケ月目の或る日のこと、親神から、

「今日は、何処へも行く事ならぬ。」

と、あった。そこで、その日は一日他出せずに居られた処、夜になってから、

「眠る間に出る/\。」

と、お話があり、その用意をして居られると、流産して、その後頭痛を催した。が、夜が明けてから、汚れた布類を自ら水で三度洗い、湯で一度洗うて、物干竿に三、四本も干されると、頭痛は拭うがように治まった。

一つ間違えば命も危いという流産の場合でさえ、一心に親神に凭れて居れば、少しも心配なく、産後にも何の懸念もないという事を、先ず自らの身に試して、親神の自由自在を証された

嘉永七年、教祖五十七歳の時、おはるが、初産のためお屋敷へ帰って居た。その時、教祖は、

「何でも彼でも、内からためしして見せるで。」

と、仰せられて、腹に息を三度かけ、同じく三度撫でて置かれた。これがをびや許しの始まりである。

その年十一月五日出産の当日(註四)、大地震があって、産屋の後の壁が一坪余りも落ち掛ったが、おはるは、心も安く、いとも楽々と男の児を産んだ。人々は、をびや許しを頂いて居れば、一寸も心配はない。成程有難い事である。と、納得した。時に、おはる二十四歳であった。生れた児は、長男亀蔵である。

その翌日、お屋敷へ来た、村人の清水惣助の妻ゆきは、おはるが元気に立ち働いて居るのを見て、不思議な守護に感じ入り、私もお産の時に、お願いすれば、このように御守護を頂けましようか。と、伺うた処、教祖は、

「同じ事や。」

と、仰せられた。

 やがて、ゆきは妊娠して、をびや許しを願い出た。教祖は、おはるになさったと同じように、三度息をかけ三度腹を撫でて、

「人間思案は一切要らぬ。親神様に凭れ安心して産ませて頂くよう。」と、諭された。ゆきは、をびや許しを頂いたものゝ、教祖のお言葉に十分凭れ切れず、毒忌み、凭れ物など昔からの習慣に従うと、産後の熱で三十日程臥せって了った。そこで、教祖に伺うて貰うと、「疑いの心があったからや。」

と、仰せられた。ゆきは、このお言葉を聞いた途端、成程、と、深く感銘して、心の底から懺悔した。

教祖は、その生れ児を引き取って世話なされた。ゆきは程なく全快した。

翌年、妊娠した時、ゆきは、今度は決して疑いませぬ。と、堅く誓って、再びをびや許しを頂いた。この度は、教祖の教をよく守り、たゞ一条に親神に凭れて居た処、不思議な程軽く産ませて頂き、産後の肥立も亦頗る順調であった。前からの成行きを知って居た村人達の間にこの話が伝わり、噂は近在へと弘まって、人々は、まだ親神のやしろとは知らないながらも、教祖は常人ではないと、漸く気付き始めた。

安政二年の頃には、残った最後の三町歩余りの田地を、悉く同村の足達重助へ年切質に書き入れなされた。

家族の者は、親神の思召のまにまに、田畑に出る時にも常に木綿の紋付を着て居たので、近村の人々は、庄屋敷村の紋付さんと呼んで居たが、中でも青物や柴を商うて近村を歩く秀司の姿は、特に人目に付いたので、村人達は、紋付さん紋付さん。と親しんだ。

教祖の五十六歳から凡そ十年の間は、まことに容易ならぬみちすがらであった。働き盛りの秀司も、娘盛りのこかんも、一日として、これはと言う日もない中を、ひたすら、教祖の思召のままに素直に通った。

 秋祭の日に、村の娘達が着飾って楽しげに歩いて居るのに、わたしは、一人淋しく道行く渡御を眺めて居ました。と、こかんが、後日になって述懐したのもこの頃の事である。

六十の坂を越えられた教祖は、更に酷しさを加える難儀不自由の中を、おたすけの暇々には、仕立物や糸紡ぎをして、徹夜なさる事も度々あった。月の明るい夜は、

「お月様が、こんなに明るくお照らし下されて居る。」

と、月の光を頼りに、親子三人で糸を紡がれた。秀司もこかんも手伝うて、一日に五百匁も紡がれ、

「このように沢山出来ましたかや。」

と仰せられる日もあった。普通、一人一日で四十匁、夜業かけて百匁と言われて居たのに比べると、凡そ倍にも近いお働き振りであった。

夏は、ひどい籔蚊に悩まされ、冬は冬とて、枯れ葉小枝をくべて暖をとりながら、遅くまで夜業に精を出された。(註五)

こかんが、お母さん、もう、お米はありません。と、言うと、教祖は、

「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。」と、諭され、又、

「どれ位つまらんとても、つまらんと言うな。乞食はさゝぬ。」

と、励まされたので、子達も、崩折れ勝ちな心を振り起して、教祖に従うた。

このように生計が苦しい時でも、その中から、食をさき着物を脱いで、困って居る者に与えられるのが常であった。漸くの思いで手に入れた五合の米を、偶々門口に立って食を乞う者に、何の惜気もなく与えられたのも、寒さにふるえて居る者を見て、身につけて居る絆纏を脱いで与えられたのも、この頃である。

にち/\に心つくするそのかたわ

むねをふさめよすゑハたのもし (二 28)

いまの事なにもゆうでハないほどに

さきのをふくハんみちがみへるで (三 36)

いまのみちいかなみちでもなけくなよ

さきのほんみちたのしゆでいよ (三 37)

こうして尚数年の間、甚だしい難渋の中を通られるうちに、初めて、四合の米を持ってお礼参りに来る人も出来た。やがて、先に緒口を開かれたをびや許しの珍らしい守護を頂く者が次々と現われ、庄屋敷村には安産の神様が御座るそうな。生神様やそうな。という声が、口から口へと八方に弘まり、初産を前にして心配して居る人や、産後の煩いで床に臥して居る人、さては、かねがねお産の重いのを苦にして居た人は、次から次へと、ふしぎなたすけを願うて寄り集うたばかりでなく、重病人があって頼みに来ると、教祖は、いつもいと快くいそいそとお出掛けになった。

文久二年、教祖六十五歳の時、先方の願により、わざわざ安堵村へ、足を運ばれ、産後の煩いで危篤に陥って居る病人をお救けになった。

二十数年に亙る長いみちすがらの後、漸く親神の思召が弘まり始めた。

お産は女の大役であり、殊にその頃は、お産に対する不安が、根強く人の心を支配して居た時代であったが、をびや許しを頂いた者は、皆、不思議なほど楽々と安産した。

をびや許しは、人間宿し込みの親里である元のやしきから出す安産の許しである。

たいないゑやどしこむのも月日なり

むまれだすのも月日せわどり(六 131)

胎内へ宿るのも生れ出るのも、皆親神の守護による。をびや許しを受けた者は、必ず皆引き受けて安産さす。をびや一切常の通り、腹帯いらず、毒忌みいらず、凭れ物いらず、七十五日の身のけがれも無し。と、教えられた。このをびや許しが、よろづたすけの道あけとなって、教祖の六十五、六歳の頃、即ち文久二、三年には、庄屋敷村のをびや神様の名が、次第に大和国中に高まるにつけ、金銭の無心を言う者も出て来た。

並松村で稲荷下げをする者が来た時は、先方の請いに委せて二両二分を与えられた。文久二年頃の事である。しかし、世間の嫉み猜みや無理難題には頓着なく、親神の御名はいよいよ弘まり、後によふぼくとして勤めた人々が、次々に引き寄せられて親里へ帰って来た。文久元年頃には、檪枝村の西田伊三郎、同じく二年頃には前栽村の村田幸右衞門、同じく三年には豊田村の仲田佐右衞門(後に儀三郎)、辻忠作等である。

 文久三年三月四日、忠作が初めて参詣して、妹くらの気の間違いに就いて伺うて貰うと、教祖は、

「此所八方の神が治まる処、天理王命と言う。ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいで来る程に。」

と、仰せられた。忠作は、教えられるまゝに、家に帰って朝夕拍子木をたゝいて、

「なむ天理王命、なむ天理王命。」

と、繰り返し繰り返し唱えて、勤めて居たが、一向に利やくが見えない。そこで、又お屋敷へ帰って、未だ治りませぬが、どうした訳で御座いましようか。と、伺うて貰うと、教祖は、

「つとめ短い。」

と、仰せられた。これを聞いた時、忠作はハッと心に思い当った。それは、当時のつとめは、たゞ拍子木をたゝいて繰り返し繰り返し神名を唱えるだけで、未だ手振りもなく、回数の定めもなく、線香を焚いて時間を計って居たのであるが、忠作は、一本立てるべき線香を半分に折って居た。これに気付いたので、早速お詫び申上げ、、家に戻り、線香を折らずに、毎朝毎晩熱心に勤めた。するとくらの患いは、薄紙を剥ぐように次第に軽くなって、間もなく全快した。

同じくこの年、安堵村の飯田善六の子供が、一命も危いという容体になった時、両親は教祖に願うて来た。早速出掛けられた処、子供はみるみる中に元気になり、牡丹餅を食べる程になった。教祖は、七、八日間滞在なされ、寄り集う人々を救けられた。

文久四年正月には、大豆越村の山中忠七が信仰し始めた。同じくこの月、教祖は、先方の頼みにより、再び、安堵村の飯田方へ出向かれ、四十日程滞在された。この由を聞き伝え、近在の村々から、教祖を慕うてたすけを求める者が、引切りなく続いた。(註六)

この事を伝え聞いた並松村の医者古川文吾は、奈良の金剛院の者をつれて来て、教祖のお居間に闖入し、狐、狸。などと罵り、将に、腕力にも及ぼうとした。その一瞬、教祖の様子忽ち改まり、厳かにお言葉があった。

「問う事あらば、問え。」

と。文吾は次々と難問を発したが、教祖は、これに対して一々鮮やかに教え諭されたので、文吾は恐れ入り、平身低頭、座を下って退去した。

元治元年の春から、教祖は、熱心に信心する人々に、扇のさづけを渡された。これを頂いた者は、五、六十人あったが、山中忠七と仲田佐右衞門は、それそれ扇、御弊、肥まるきりのさづけを頂いた。同年十二月二十六日には、辻忠作外数名の者がさづけを頂いた。この時、教祖から、

「前栽、喜三郎、平骨の扇渡す、これ神と思うて大切に祀れ。」

「同、善助、黒骨の扇渡す。」

「同、幸右衞門、御幣、肥授けよう。豊田、忠作、御幣、肥授けよう。これ末代と悟れ。長の道中、路金なくては通られようまい。路金として肥授けよう。」

と、お言葉を頂いた。

この頃には既に、芝村、大豆越村、横田村、小路村、大西村、新泉村、龍田村、安堵村、並松村、櫟本村、古市村、七条村、豊田村など、近村は言うに及ばず、かなり遠方からも、多くの人々が寄り集まった。

 このように、教祖六十六、七歳の頃、即ち、文久、元治の頃となって、帰って来る人々が次第に殖えると、お屋敷の建物の手狭さが特に目立って来た。既に母屋は無く、古い粗末な八畳と六畳の二間が、教祖のお住居であり、その八畳の間に、目標として御幣を祀って、人々の寄り集まる部屋ともなって居た。毎月の二十六日には、室内に入り切れず、庭まで溢れる景況であったので、早く詣り所を普請さして頂かねば、という声が、人々の間に、漸く起り始めた。

後の本席・飯降伊蔵が、初めて参詣したのは、この頃の事である。

元治元年五月の或る日、伊蔵が参詣して、こかんに、妻が産後の煩いから寝ついて居る旨を述べ、おたすけを願った。こかんが、この由を教祖に取り次ぐと、教祖は、

「さあ/\、待って居た、待って居た。」

と、喜ばれ、

「救けてやろ。救けてやるけれども、天理王命と言う神は、初めての事なれば、誠にする事むつかしかろ。」

と、お言葉があったので、こかんは、三日の願をかけ、散薬を与えた。

教祖は、これより先、

「大工が出て来る、出て来る。」

と、仰せられて居た。

伊蔵は、櫟本村へ戻って、妻のおさとにこの由を話すと、おさとも大そう喜び、教えられた通り、腹帯を取り除き、散薬を、早速一服、夜一服明方一服頂いた処、少しく気分が良くなった。伊蔵は、夜の明けるのを待ち兼ねてお屋敷へ帰り、こかんにこの旨を申上げると、

「神様は、救けてやろ、と仰しやるにつき、案じてはいかん。」

と、教えられ、更に散薬を頂いて戻り、おさとに頂かせると、夕方から大そう楽になった。伊蔵は、その夜、三度お屋敷へ帰った。

 おさとは、三日目には物に凭れて食事できる迄にお救け頂いた。伊蔵がお参りした時に、秀司が、どうですか。と、尋ねたので、大いに救かりました。と答えると、秀司は、よく救かってくれた。と、喜んだ。こうして、日ならずして、おさとの産後の煩いは、すっきり全快の守護を頂いた。

註一 高塀とは、茅葺きの屋根の両端を防火のために数列の瓦葺きにし、その三角形の側面を漆喰で塗り固めたもの。家の格式を表すものでもあった。

  二 嘉永6年2月22日は、西暦1853年3月31日にあたる。

  三 「この道始め家の毀ち初めや。やれ目出度い/\と言うて、酒肴を出して内に祝うた事を思てみよ。変わりた話や/\。さあ/\そういう処から、今日まで始め来た/\。世界では長者でも今日から不自由の日もある。何でもない処から大きい成る日がある。家の毀ち初めから、今日の日に成ったる程と、聞き分けてくれにゃなろまい。」

  四(明治三三・一〇・三一)註三 嘉永7年11月5日は、西暦1854年12月24日にあたる。尚、この年11月27日(一八五五・一・一五)を以て、安政元年と改元される。

  五 「話を楽しませ/\、長い道中連れて通りて、三十年来寒ぶい晩にあたるものも無かった。あちらの枝を折りくべ、こちらの葉を取り寄せ、通り越して来た。神の話に嘘は有ろまい。さあ/\あちらが出て来る、こちらが出て来る、」

  六(明治二九・三・三一)註五 文久4年2月20日改元、元治元年となる。