天理教人名辞典 橋本清 はしもときよし

橋本清 はしもときよし

現在の奈良県桜井市大字芝にて生まれる。

明治15、16年(1882、3)頃、丹波市町石上小学校教員であったことからして、江戸最末期の出生かと想像される。

教員時代、初代真柱中山眞之亮との親交があり、明治18年頃には中山家の食客となっていた。

弁舌たくみで筆も立つところから、次第におやしきの勤めに従事するようになった。

教祖(おやさま)が現身を隠された時には小鼓役でおつとめにでている。

その後、教会本部においては対外折衝役をしたり、祭典もつとめたり、かなり重要視されていた。

また、初代真柱の随行として、郡山分教会(明治22年)、河原町分教会(同年)、北分教会(同26年)等へ出張している。

しかし、私生活においては、遊興にふけることが多く、いつも不平不満をもっていたと伝えられる。

ある時は、刀をふり回わし、怪我人も出た。

明治30年、前川菊太郎と共に辞職願を本部へ提出した。

明治32年には、『天理教会の内幕』(警世社)という反教文書を出版した。

これは内務省にも提出されたので問題は大きくなり、神道本局、内務省の諒解を得るため初代真柱が東京に出張の上答弁した。

橋本はこの書の中で、教会は祭典で人を寄せたり踊ったりするところではない、祭場で舞踏をするべきではない等と述べており、信仰者になりきれなかった一面が窺える。

前川、橋本の辞職事件は、教祖10年祭前後に重なった天理教のふしのひとつであった。