辻とめぎく つじとめぎく
辻とめぎくは、明治3年(1870)4月25日、大和国山辺郡豊田村(現、奈良県天理市豊田町)において、父辻忠作、母辻ますの三女として生まれている。
辻忠作とますとの間には、長女かめ、長男由松、二女いそ、三女とめぎく、四女よしゑ、二男上吉の6人の子供がいる。
明治8年(1875)かんろだいのぢば定めが行われた。
教祖(おやさま)は、先ず自ら庭の中を歩まれ、足がぴたりと地面にひっついて前へも横へも動かなくなった地点に標を付けられた。
その後、人々を、次々と、目隠しをして歩かせた処、皆、同じ処へ吸い寄せられるように立ち止まった。
母ますは、初めの時は立ち止まらなかったが、子供のとめぎく(6歳)を背負って歩くと、皆と同じ所で足が地面に吸い付いて動かなくなったという(『稿本天理教教祖伝』129頁)。
とめぎくの魂のいんねんがそうさせたのであろうか。
その後も親とともにお屋敷に通っていたのであろう。
明治10年、とめぎくが8歳の時に、教祖は
「琴を習いや。」
と仰せくだされた。
そして数日後に、父忠作の身上を通して、教祖から直々三曲の鳴物(琴)を教わることになった(『稿本天理教教祖伝』136頁、『稿本天理教教祖伝逸話篇』92頁)。
明治13年9月30日(陰暦8月26日)に、初めて三曲をも含む鳴物を揃えて、よふきづとめ(ようきづとめ)が行われたが、とめぎく(11歳)は女鳴物(琴)をつとめている(『稿本天理教教祖伝』149頁、『稿本天理教教祖伝逸話篇』130頁)。
また、明治15年の10月12日(陰暦9月1日)から10月26日(陰暦9月15日)まで、教祖自ら北の上段の間にお出ましの上、毎日つとめが行われたが、とめぎく(13歳)は、そこでも琴の鳴物をつとめている(『稿本天理教教祖伝』242頁)。
さらには、明治16年8月15日(陰暦7月13日)の雨乞づとめにもとめぎく(14歳)は、赤い金巾に模様のある着物を着て、父忠作とともに参加(琴)している。
そして、丹波市分署へも拘引されている(『稿本天理教教祖伝』260、263ページ)。
その後の消息の詳細は不明であるが、18歳の時から本づとめに出ているとのことである。
しかし、明治20年2月18日(陰暦正月26日)のつとめにはその名がない。
明治28年(1895)、とめぎく26歳の時にであろうか、岩屋から豊三郎を養子に迎えているようである(『稿本天理教教祖伝』329ページ)。