みかぐらうたには、「むり」という言葉が幾度か使われることがあります。
そのはずやといてきかしたことハない しらぬがむりでハないわいな (よろづよ八首 2首目)
むりなねがひはしてくれな ひとすぢごゝろになりてこい (三下り目 6)
むりにどうせといはんでな そこはめい/\のむねしだい (七下り目 6)
むりにでやうといふでない こゝろさだめのつくまでハ (九下り目 6)
むりにとめるやないほどに こゝろあるならたれなりと (十一下り目 6)
むりにこいとハいはんでな いづれだん/\つきくるで (十二下り目 6)
とあるように、天理教の信心において、「むり(無理)」をすることは、強く戒められています。
天理教では、心の自由が教えられ、律法宗教のような戒律的なものは、一つもありません。
心の成人をはかることが、天理教の一名一人の信仰が基盤とされている所以でもあります。
たとえ、親子、夫婦、兄弟の間でも、みんな魂が違うのであり、心の働きも異なるのです。
ですので、このことを強調されればされるほど、むりするが強く戒められるのです。
身上は、一人ひとりのかしもの、かりもののあることを自覚し、更に前生からのいんねんを自覚するならば、たんのうとひのきしんの心は自ずから生まれてくるのです。
ですから、天理教の信仰において、むり(無理)の介在する余地は全くないのです。