第五章 たすけづとめ 天理教教祖伝

天理教教祖伝

天理教教祖伝第四章 つとめ場所 天理教教祖伝

教祖は、陽気ぐらしをさせたいとの、親神の思召のまにまに、慶応二年から明治十五年に亙り、よろづたすけの道として、たすけづとめを教えられ、子供の心の成人につれ、元の理を明かし、たすけづとめの全貌を整えられた。

この世元初まりの時、親神は、人間の陽気ぐらしを見て共に楽しみたいとの思召から、人間を創め給うた。陽気ぐらしこそ、親神の思召にかなう人間生活である。

然るに、人間は、陽気ぐらしをさせようとて、我がの理とゆるされた心の自由を用い誤まり、我が身思案にさ迷うて来た。

親神は、これを憐れと思召され、旬刻限の到来を待ち、教祖をやしろとして表に現われ、一列人間の心を澄まし、陽気ぐらしへ導く道として、たすけづとめを啓示げられた。つとめはかぐらを主としててをどりに及ぶ。

かぐらづとめは、元のぢばに於いて勤める。十人のつとめ人衆が、かんろだいを圍み、親神の人間世界創造の働きをそのままに、それぞれの守護の理を承けて、面をつけ、理を手振りに現わして勤める。地歌鳴物の調子に従い、親という元という理一つに溶け込んで、一手一つに勤める時、親神の創造の守護は鮮やかに現われ、いかなる身上の悩みも事情の苦しみも、悉く取り除かれて、この世は次第に陽気ぐらしの世界へと立替わる。

かぐらの地歌は、次の三句より成る。

あしきをはらうてたすけたまへ
てんりわうのみこと

ちよとはなし かみのいふこときいてくれ
あしきのことはいはんでな
このよのぢいとてんとをかたどりて
ふうふをこしらへきたるでな
これハこのよのはじめだし

あしきをはらうてたすけせきこむ
いちれつすましてかんろだい

てをどりは、陽気ぐらしの如実の現われとして、かんろだいのぢば以外の所にても勤める事をゆるされて居る。地上に充ちる陽気ぐらしの自らなる現われとも言うべきものである。このてをどりの地歌として教えられたのが、よろづよ八首及び十二下りの歌である。

つとめは、かぐら面を用いるが故に、かぐらづとめとも呼び、よろづたすけを現わすつとめなれば、たすけづとめとも呼ぶ。かんろだいを圍んで勤めるが故に、かんろだいのつとめとも呼び、陽気ぐらしを讃えるつとめなれば、よふきづとめとも呼ぶ。それぞれの意味に於いてそれぞれの呼び名を教え、呼び名によって、つとめにこもる深い理の一つ一つを、分り易く覚え易く教えられた。

かぐらとてをどりの地歌を合わせた、つとめの地歌の書きものを、みかぐらうたと呼ぶ。

さて、つとめの地歌は、慶応二年「あしきはらひ」に始まる。

慶応二年秋、教祖は、

あしきはらひたすけたまへ てんりわうのみことと、つとめの歌と手振りとを教えられた。

この年の五月には、大和国若井村の松尾市兵衞が、信仰し始めた。

年が明けると慶応三年、教祖七十歳の年、正月から八月迄に、十二下りの歌を作られた。各下りは、いずれも十首ずつの数え歌から成り、親神の望まれる陽気ぐらしの喜びに充ちて居る。

思えば、教祖は、教の創まり以来長い歳月の間、親神の思召のまにまに、一日として今日という日とてない中を、しかも勇んで通り抜けられ、こゝに目出度く迎えられたのが、月日のやしろと成られて三十年目の慶応三年新春である。

更に、明治三年には、よろづよ八首の歌を十二下りの歌の初めに加えられた。

よろづよのせかい一れつみはらせど

むねのわかりたものはない

そのはずやといてきかしたことハない

しらぬがむりでハないわいな

このたびはかみがおもてへあらハれて

なにかいさいをときゝかす

このところやまとのぢばのかみがたと

いうていれどももとしらぬ

このもとをくはしくきいた事ならバ

いかなものでもこいしなる

きゝたくバたづねくるならいうてきかす

よろづいさいのもとなるを

かみがでゝなにかいさいをとくならバ

せかい一れついさむなり

一れつにはやくたすけをいそぐから

せかいのこゝろもいさめかけ

一下り目

一ッ 正月こゑのさづけは やれめづらしい

二ニ につこりさづけもろたら やれたのもしや

三ニ さんざいこゝろをさだめ

四ッ よのなか

五ッ りをふく

六ッ むしやうにでけまわす

七ッ なにかにつくりとるなら

八ッ やまとハほうねんや

九ッ こゝまでついてこい

十ド とりめがさだまりた

二下り目

とん/\とんと正月をどりはじめハ

 やれおもしろい

二ッ ふしぎなふしんかゝれバ

 やれにぎはしや

三ッ みにつく

四ッ よなほり

五ッ いづれもつきくるならば

六ッ むほんのねえをきらふ

七ッ なんじふをすくひあぐれバ

八ッ やまひのねをきらふ

九ッ こゝろをさだめゐやうなら

十デ ところのをさまりや

三下り目

一ッ ひのもとしよやしきの

 つとめのばしよハよのもとや

二ッ ふしぎなつとめばしよハ

 たれにたのみはかけねども

三ッ みなせかいがよりあうて

 でけたちきたるがこれふしぎ

四ッ よう/\こゝまでついてきた

 じつのたすけハこれからや

五ッ いつもわらはれそしられて

 めづらしたすけをするほどに

六ッ むりなねがひはしてくれな

 ひとすぢごゝろになりてこい

七ッ なんでもこれからひとすぢに

 かみにもたれてゆきまする

八ッ やむほどつらいことハない

 わしもこれからひのきしん

九ッ こゝまでしん/\したけれど

 もとのかみとハしらなんだ

十ド このたびあらはれた

 じつのかみにはそうゐない

四下り目

一ッ ひとがなにごといはうとも

 かみがみているきをしずめ

二ッ ふたりのこゝろををさめいよ

 なにかのこともあらはれる

三ッ みなみてゐよそばなもの

 かみのすることなすことを

四ッ よるひるどんちやんつとめする

 そばもやかましうたてかろ

五ッ いつもたすけがせくからに

 はやくやうきになりてこい

六ッ むらかたはやくにたすけたい

 なれどこゝろがわからいで

七ッ なにかよろづのたすけあい

 むねのうちよりしあんせよ

八ッ やまひのすつきりねはぬける

 こゝろハだん/\いさみくる

九ッ こゝはこのよのごくらくや

 わしもはや/\まゐりたい

十ド このたびむねのうち

 すみきりましたがありがたい

五下り目

一ッ ひろいせかいのうちなれバ

 たすけるところがまゝあらう

二ッ ふしぎなたすけハこのところ

 おびやはうそのゆるしだす

三ッ みづとかみとはおなじこと

 こゝろのよごれをあらひきる

四ッ よくのないものなけれども

 かみのまへにハよくはない

五ッ いつまでしん/\したとても

 やうきづくめであるほどに

六ッ むごいこゝろをうちわすれ

 やさしきこゝろになりてこい

七ッ なんでもなんぎハさゝぬぞへ

 たすけいちじよのこのところ

八ッ やまとばかりやないほどに

 くに/\までへもたすけゆく

九ッ こゝはこのよのもとのぢば

 めづらしところがあらはれた

どうでもしん/\するならバ

 かうをむすぼやないかいな

六下り目

一ッ ひとのこゝろといふものハ

 うたがひぶかいものなるぞ

二ッ ふしぎなたすけをするからに

 いかなることもみさだめる

三ッ みなせかいのむねのうち

 かゞみのごとくにうつるなり

四ッ ようこそつとめについてきた

 これがたすけのもとだてや

五ッ いつもかぐらやてをどりや

 すゑではめづらしたすけする

六ッ むしやうやたらにねがひでる

 うけとるすぢもせんすぢや

七ッ なんぼしん/\したとても

 こゝろえちがひはならんぞへ

八ッ やつぱりしん/\せにやならん

 こゝろえちがひはでなほしや

九ッ こゝまでしん/\してからハ

 ひとつのかうをもみにやならぬ

十ド このたびみえました

 あふぎのうかゞひこれふしぎ

七下り目

一ッ ひとことはなしハひのきしん

 にほひばかりをかけておく

二ッ ふかいこゝろがあるなれバ

 たれもとめるでないほどに

三ッ みなせかいのこゝろにハ

 でんぢのいらぬものハない

四ッ よきぢがあらバ一れつに

 たれもほしいであらうがな

五ッ いづれのかたもおなしこと

 わしもあのぢをもとめたい

六ッ むりにどうせといはんでな

 そこはめい/\のむねしだい

七ッ なんでもでんぢがほしいから

 あたへハなにほどいるとても

八ッ やしきハかみのでんぢやで

 まいたるたねハみなはへる

九ッ こゝハこのよのでんぢなら

 わしもしつかりたねをまこ

十ド このたびいちれつに

 ようこそたねをまきにきた

 たねをまいたるそのかたハ

 こえをおかずにつくりとり

八下り目

一ッ ひろいせかいやくになかに

 いしもたちきもないかいな

二ッ ふしぎなふしんをするなれど

 たれにたのみハかけんでな

三ッ みなだん/\とせかいから

 よりきたことならでけてくる

四ッ よくのこゝろをうちわすれ

 とくとこゝろをさだめかけ

五ッ いつまでみあわせゐたるとも

 うちからするのやないほどに

六ッ むしやうやたらにせきこむな

 むねのうちよりしあんせよ

七ッ なにかこゝろがすんだなら

 はやくふしんにとりかゝれ

八ッ やまのなかへといりこんで

 いしもたちきもみておいた

九ッ このききらうかあのいしと

 おもへどかみのむねしだい

十ド このたびいちれつに

 すみきりましたがむねのうち

九下り目

一ッ ひろいせかいをうちまわり

 一せん二せんでたすけゆく

二ッ ふじゆうなきやうにしてやらう

 かみのこゝろにもたれつけ

三ッ みれバせかいのこゝろにハ

 よくがまじりてあるほどに

四ッ よくがあるならやめてくれ

 かみのうけとりでけんから

五ッ いづれのかたもおなじこと

 しあんさだめてついてこい

六ッ むりにでやうといふでない

 こゝろさだめのつくまでハ

七ッ なか/\このたびいちれつに

 しつかりしあんをせにやならん

八ッ やまのなかでもあちこちと

 てんりわうのつとめする

九ッ こゝでつとめをしてゐれど

 むねのわかりたものハない

とてもかみなをよびだせば

 はやくこもとへたづねでよ

十下り目

一ッ ひとのこゝろといふものハ

 ちよとにわからんものなるぞ

二ッ ふしぎなたすけをしてゐれど

 あらはれでるのがいまはじめ

三ッ みづのなかなるこのどろう

 はやくいだしてもらひたい

四ッ よくにきりないどろみづや

 こゝろすみきれごくらくや

五ッ いつ/\までもこのことハ

 はなしのたねになるほどに

六ッ むごいことばをだしたるも

 はやくたすけをいそぐから

七ッ なんぎするのもこゝろから

 わがみうらみであるほどに

八ッ やまひはつらいものなれど

 もとをしりたるものハない

九ッ このたびまでハいちれつに

 やまひのもとハしれなんだ

十ド このたびあらはれた

 やまひのもとハこゝろから

十一下り目

一ッ ひのもとしよやしきの

 かみのやかたのぢばさだめ

二ッ ふうふそろうてひのきしん

 これがだいゝちものだねや

三ッ みれバせかいがだん/\と

 もつこになうてひのきしん

四ッ よくをわすれてひのきしん

 これがだいゝちこえとなる

五ッ いつ/\までもつちもちや

 まだあるならバわしもゆこ

六ッ むりにとめるやないほどに

 こゝろあるならたれなりと

七ッ なにかめづらしつちもちや

 これがきしんとなるならバ

八ッ やしきのつちをほりとりて

 ところかへるばかりやで

九ッ このたびまではいちれつに

 むねがわからんざんねんな

十ド ことしハこえおかず

 じふぶんものをつくりとり

 やれたのもしやありがたや

十二下り目

一ッ いちにだいくのうかゞひに

 なにかのこともまかせおく

二ッ ふしぎなふしんをするならバ

 うかゞひたてゝいひつけよ

三ッ みなせかいからだん/\と

 きたるだいくににほいかけ

四ッ よきとうりやうかあるならバ

 はやくこもとへよせておけ

五ッ いづれとうりやうよにんいる

 はやくうかゞいたてゝみよ

六ッ むりにこいとハいはんでな

 いづれだん/\つきくるで

七ッ なにかめづらしこのふしん

 しかけたことならきりハない

八ッ やまのなかへとゆくならバ

 あらきとうりやうつれてゆけ

九ッ これハこざいくとうりやうや

 たてまへとうりやうこれかんな

十ド このたびいちれつに

 だいくのにんもそろひきた

 
つづいて節付けと振付けに、満三ケ年かゝられた。教祖は、

「これは、理の歌や。理に合わせて踊るのやで。たゞ踊るのではない、理を振るのや。」

と、仰せられ、又、

「つとめに、手がぐにゃぐにゃするのは、心がぐにゃぐにゃして居るからや。一つ手の振り方間違ても、宜敷ない。このつとめで命の切換するのや。
大切なつとめやで。」

と、理を諭された。

初めてお教え頂いたのは、歌は、豊田村の忠作、前栽村の幸右衞門、喜三郎、手振りは、豊田村の佐右衞門、忠作、前栽村の喜三郎、善助、三島村の嘉一郎の面々であった。

後年、教祖は、

「わしは、子供の時から、陰気な者やったで、人寄りの中へは一寸も出る気にならなんだが、七十過ぎてから立って踊るように成りました。」

と、述懐された。

当時庄屋敷村は、藤堂藩に属し、大和国にある同藩の所領を管轄する役所は、古市代官所と言って奈良の南郊にあった。この古市代官所では、小泉不動院の訴えもあり、守屋筑前守の紹介もあり、その後も庄屋敷村の生神様の風評は次第に喧しくなって来るので、慶応二年の頃、呼び出して事情を聞いた。

お屋敷からの一行は、宿にあてられた会所に二、三日宿泊された。代官所では段々と実情を聴取したが、不都合の廉は少しもない。ただ公許を受けて居ない点だけが、問題として残った。そこで、話合いの上、吉田神祇管領へ願い出る事となった。先ず、慶応三年六月、添書の願を古市代官所へ提出し、(註一)領主の添書を得て、秀司は、山沢良治郎を供に、守屋筑前守も同道して京都へ上り、吉田神祇管領に出願し、七日間かゝって、慶応三年七月二十三日付で、その認可を得た。

当局の認可を得た事は、どんなに嬉しかったであろうか。親神の思召の弘まって行く上に、確かに躍進の一歩を進めるものと思われた。特に、しんになって働いた秀司の苦心と喜びは、並々ならぬものがあり、帰りには行列を作ろうと思うて居た処、布留社の神職達が、布留街道は我が方の参道であるから、もし一歩でも踏み込んだら容赦せぬ、とて、人を雇うて河原城村の石の鳥居の所で待ち伏せて居る、と、報らせがあったので、別所村から豊田村へと間道を通り、恙なくお屋敷へ到着した、という話が残って居る。

お屋敷では、日夜お手振りの稽古が行われ、人々の心は明るくなった。

しかし、教祖は、

「吉田家も偉いようなれども、一の枝の如きものや。枯れる時ある。」と、仰せられた。

慶応三年八月頃、世間では、お祓いさんが降る、と、騒いだが、教祖は、

「人間の身体に譬えて言えば、あげ下しと同じようなもの、あげ下しも念入ったら肉が下るように成る程に。神が心配。」

と、仰せられた。人々は、一体何が起るのかしらと気懸りであった処、翌慶応四年正月三日から鳥羽伏見の戦が起こった。

慶応四年三月七日、教祖は、大豆越村の山中忠七宅へ出掛けられ、十日迄滞在された。こかんも同じく出掛け、九日から十三日迄滞在した。

当時お屋敷は、お手振りの稽古で賑わって居た。

しかし、世間の反対攻撃は未だ全く無くなった訳ではなく、慶応四年三月二十八日の夜には、お手振りの稽古をして居ると、多数の村人が暴れ込んで、乱暴を働いた。

同年九月には、明治元年と改元された。

同年十二月には、伊豆七条村の矢追治郎吉(後に喜多)が、信仰し始めた。

明治三年には、「ちよとはなし」の歌と手振りとを、同八年には、「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りとを教えられ、こゝに、かんろだいのつとめの手一通りが初めて整い、つゞいて、肥、萠え出等十一通りの手を教えられた。更に、明治十五年に、手振りは元のまゝながら、「いちれつすます」の句は、「いちれつすまして」と改まり、それに伴うて、「あしきはらひ」も亦、「あしきをはらうて」と改まった。

註一 古市代官所へ呈出した文書の控

乍恐口上之覚庄屋敷村 願人 善右衞門一、私儀従来百姓渡世之ものニ御座候、然ルニ三十ケ年余己前、私幼少人 善右衞門之頃癇病(風毒)ニ而、足脳ミ候ニ付、亡父善兵衞存命中、私方屋敷内人 善右衞門ニ天輪王神鎮守仕信心仕(中略)然ルニ右信心之儀諸方江相聞近来諸方人 善右衞門ヨリ追々参詣人有之就而ハ、神道其筋ヨリ故障被申立候而ハ、迷惑難渋人 善右衞門仕候ニ付此度京都吉田殿江入門仕置度奉存候ニ付乍恐此段御願奉申上候、 人 善右衞門何卒御情愍を以、吉田殿江之御添翰被為下置候様奉願上候、右之趣御聞人 善右衞門届被為成下候ハヽ難有仕合可奉存候、以上

慶応三卯年六月庄屋敷村

願人 善兵衞

同村年寄 庄作

同村 平右衞門

同村庄屋 重助服部庄左衞門様

(備考 後の方の「願人 善兵衞」は、「願人 善右衞門」の誤記と思われる。)

天理教教祖伝第六章 ぢば定め 天理教教祖伝