辻忠作 つじちゅうさく
辻忠作は、教祖(おやさま)から直接仕込みをうけた高弟の一人で幼名を忠右衛門といい、天保7年(1836)大和国山辺郡豊田村(現、奈良県天理市豊田町)に父忠作、母りう(おりう)の長男として誕生した。
父のしつけと生来の負けず嫌い、それに何事にも熱中する性格とが相まって、1年を3年分にも働くということで、千日さんと綽名されるほどの無類の働き者に成長し、23歳で家督を継ぎ忠作と名乗った。
忠作は妹くらの精神障害を助けられて教祖に心が向き、追うように長男由松の原因不明の高熱をたすけられて信仰の心を固めた。文久3年(1863)忠作28歳のことである。
毎月26日、月に一度の参拝という形で開始された信仰は、やがて野良仕事がすめば夕食もそこそこに教祖の所へ通いつめて教えを受けるようになった。
元治元年(1864)には「肥のさづけ」を頂き、最初に「てをどり」の手ほどきを受けた。
忠作の信仰は、同じ豊田村の仲田儀三郎と競う形で固められ、明治6、7年頃には何かにつけて、教祖のお供をするようになった。
教祖と共に留置されたり、警察から信仰を止めるよう強要されたりしたが、動じるどころか、ますます信仰に熱が入り、履き替えの草鞋を2、3足も腰に結んで人たすけに歩き回り、ついには警官に「根限り信仰してみよ。その代わり本官も根限り止めてやる。」と言わせる程になった。
また、記憶力に優れ、事にふれては書き留めた忠作の手記は、天理教の初期の歩みを知る上で貴重な資料となっている。
明治19年(1886)の春から、教祖の指図によって家業を長男の由松に委せ、お屋敷に詰めて人々に親神の教えを取り次ぐようになった。
一途で子供のように純真な人柄は多くの人々から慕われたが、明治38年(1905)7月12日、70歳の生涯を閉じた。