竹内未誉至 たけうちみよし
大阪の天恵二番の信者。
明治17年(1884)頃、大阪北炭屋町では天恵組一番(村上文治郎が講元)、二番の信者が中心となって心学道話講究所を作った。
その代表者の一人が竹内未替至であった。
9月には竹内は、更にこれを大きくして大日本天輪教会を設立しようと計画し、天恵組、真心組(大阪大正区三軒家町、博多市次郎講元)、その他大阪の講元に呼びかけ、つづいて兵庫、遠江、京都、四国に迄も呼びかけようとした。
「神恩皇恩祭典執行願」(年月日不記。『復元』47号、27頁-31頁所収)によれば、竹内は大阪府南区午年丁14番地、士族竹内未馨至」とある。
元大阪府の刑事であったところから、天理教が警察からの圧迫干渉を防禦しようとするなら、法に基づいた教会を設置することだ、と自ら中心となり、村上講元の住む北炭屋町14番地に2階建ての「大日本天輪教会」をつくった。
大阪及び地方の信者に呼びかけ、おぢばを中心に教会創設の運動に着手した。
信者の常宿村田長平宅を教会本部創立事務所とし、明治18年3月7日教会設置のための会議を開いた。
いわゆる月給会議といわれるもので、会議議決表によれば竹内は、「会長幹事ノ給料ノ事ヲ廃スベキ事ヲ言フ」とある。
会議の席上、参加者の一人井筒梅治郎(真明組講元)が腹痛を起こして倒れた。
そこで教祖(おやさま)に伺うと、
「さあさあ今なるしんばしらははそいものやで。なれど肉の巻きよで、どんなゑらい者になるやわからんで」
と、仰せられた(『稿本天理教教祖伝』277頁)。
この一言で皆は、教会創設は真柱を中心に運ばなければならぬことに目覚めた。
教会設置運動は、これより竹内らの手を離れ、中山眞之亮を芯とした、本格的な動きに発展することになった。