順子奥様 学生生徒修養会(学修)大学の部でのお話

みなさま、こんにちは。私は兵神大教会部内、天浦分教会部内、八生兵庫分教会会長家内の西村順子と申します。

そんな大した経験や苦労らしい苦労もなく、こんな自分が人様の前でお話しできることは殆どありませんが、いい格好もできませんので、ありのまま正直にお話しさせてもらおうと思ってまいりました。

みなさまの優しさに甘えてつとめさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

私は道一条、道専務の初代で、29歳の時に自ら天浦分教会に住み込ませていただき、二代会長の木下寿美子先生という理の親より、にをいがけやおたすけを教えていただきました。

そこからウン10年が経ち、心の底からこんな楽しい面白い道はない、やらなきゃ損、と思っております。

でも、天理教に関わっている人が嫌、おつとめさせられるのが嫌、教会が嫌、天理教大嫌いと逃げ続けてきた自分が、何をどう間違って、今ここに立たせてもらっているのか少し振り返ってみました。

お道に目覚めるまでの歩み

私の実家の信仰は祖母からで、同じ美容業界でお会いしたのが、天浦の二代会長になられた木下寿美子先生で、先生も祖母も20代の時でした。

当時日本一流行の最先端と謳われた神戸元町のトワロードで関西一のセレブ相手の店をされており、小説や映画にもなった方ですが、その木下先生が町を歩くと若い女性たちがついていく程、流行に身を包み、日本に3台しかないクライスラーに乗ってお店に通っておられました。

その方が若干31歳で、隆盛な商売を手放し、たすけ一条に出られたのでした。

仕事仲間であった祖母は大いに驚き、

「何が悲しくてハッピをきて布教に歩いておられるのか」と聞くと先生は

「お金が湯水のように入ってきても、大勢のお客様が来てくださっても、たった一人の主人の心が他の女性に行ってしまい、人生に虚しさを感じ、もっと本当の人間の生き方を求めたいからです。」

と仰ったそうです。

祖母も同じく、お金はあっても祖父がせっせと愛人宅に通いつめる姿に苦しんでいたため、「娘には同じ人生を歩ませたくない」と打ち明けると、

「そしたら徳を積みなさい。徳を積んで因縁を切りなさい」

と教えてくださり、「どうやって徳を積むのですか?」と聞くと、

「人を助けるのです。人をたすけてこそ、我が身がたすかってゆくのです。」

と教えられ、わがままで気の強い祖母は、その強気で一族や知人をどんどんと天理教にしていきました。

皆「はいっ」と祖母の言うことを聞いて信仰していくのに、私一人反抗しておりました。

というのも、私が小学生の頃、家は講社で神様を祀っていました。

父が拍子木を打ちおつとめをするのですが、毎日のように夫婦喧嘩が絶えず、父は祖父と同じ道を歩んでゆくのです。

美容業ですから、若い女性が何人も住み込んでいます。

その中でも私が一番懐いていた若くて綺麗なお姉さんとの浮気が始まっていったのです。そのことをきっかけに母は勢いよく家を出て行きました。

何か揉め事があるたびに木下先生は駆けつけて下さり、母にコンコンとお話をして頂きましたが、気ままな母は聞き入れずにとうとう離婚となり、家族の崩壊が始まっていきました。

小学生だったある日、父から

「今日は外行きの服を着て、おばあちゃんの家に行きなさい。」と言われたので、

「何か楽しいことがあるのかな?」と着替えていき、

「こんにちは。今日は何があるの?」と聞くと、

集まってきた親族が皆「えーっ!順ちゃん知らんの?」とびっくりして

「今日はお父さんの結婚式よ!」と言うのですから、今度は私が驚く番です。

「えーーっ!!」

浮気相手の女性が母になるのです。

大人のすることって、全く「どこの小学生が親の結婚式に来賓で出席するのよっ!」と思いました。

そんなこんなで常時、揉め事のある家を見て、

「信仰しとって何なん、何にもたすかってないやん、幸せやないやん、揉めてるやん」と批判的に見ていたのです。

自分の運命の悪さや不徳さをすべて天理教に八つ当たりしてきたと思います。そして、親の姿を見て決して好きではなかった美容の道に、気がつくと入っておりました。

当時は一番ステキでおしゃれと称されていた東京の青山という町で仕事をしており、そこに来られるのは、女医・弁護士・教授・コピーライターなどで大活躍されている方々でした。贅沢に装い、エステで磨きをかけ、地位・名誉・財産、おまけに美貌まで揃った方々でした。

肌に触れる仕事という安心感からか、私のことを少しは信頼して下さり、人には言えない悩みをさまざま聞かせて頂きました。

どんなに華やかな暮らしをしていても、皆それぞれの運命的に抱えた苦労で苦しみ、悩んでおられることを思い知りました。

地位・名誉・財産と幸せはイコールではない、逆に反比例することの方が多いとさえ思ったくらいでした。

そこに時々、理の親の木下先生が来てくださり、「順子ちゃん元気?」と声をかけてくださいます。天理教嫌いだった私も、その優しい雰囲気や飄々とした姿に少しずつ心が惹かれていきました。

教祖100年祭の手引き

時は教祖100年祭の三年千日、今と同じ年祭の旬です。

年祭の旬は、不思議な教祖のお力が大きく働いてくださるのでしょうか。段々と私の心の虚しさが広がってきたのです。

家のルーツを見ると、何代遡っても夫婦の収まりがなく、離婚・不倫とややこしいことが続いています。その一族に生まれてきた私も同じ運命を持っているから同じグループとして生まれてきたのだな、先々は同じ道を歩む確率が高いな、と考えるようになりました。

どこかでチェンジしないと、、、でもどうしたらいいんだろうか?

頭には「心一つのかしもの・かリもの」が出てきます。

これって全部自分のせいってことよね。

人間関係も姿も環境もすべて自分の心使いの結果。今世覚えがなければ、前世の結果でもある。

心の入れ替えなんて大変やな、もうしんどいから命絶って終わりにしたい。

でも「魂は生き通し」と聞くと、死んでも終わりにはならない。来世、来々生と同じ運命が繰り返されていく。

ここまで考えたとき、

「よし!死ぬ気になったらなんでもできるわ!悪い因縁納消に命をかける!」

と、こんな大層な決意をして、天浦分教会に住み込ませていただきました。

東京から神戸の教会に帰ってくる新幹線の中、

「これから収入のない暮らしに入る、慣れない教会生活に入る、これから一体どうなるんだろう。」

と不安でいっぱいです。

でも大丈夫、あんな優しい先生のそばに行くのだから、と自分を安心させていました。

先生が「順子ちゃん、何も心配はないよ。いるときにいるものがあたわるのよ」

なんてアバウトなことをおっしゃるのか、意味がわからない。

「順子ちゃん、お小遣いには不自由しないよ」と言われ、

「えっ、先生が毎月お小遣いくれるのかしら」と思いましたが、甘い甘い自分でした。

日々先生のおそばでひのきしんの毎日でしだが、日に日に先生が怖くなっていきます。

一日のおたすけを終えられ、夜中の12時や13時にお風呂に入られます。大きな背中を小さな私が必死で気を使って流しておりますと、

「お湯の掛け方に真実がない!」

と叱られます。お湯掛けるのに、真実やそんなんあるんかいな、と納得いかない顔をしておりますと、明け方になってまでも、私が素直に認めるまでお仕込みです。常に先生は本気なのです。

自分は今、若い者にこんな仕込みはできません。適当なところで手を離してしまいます。先生の親心と恐ろしさに恐れ慄きながら、不眠不休でお仕えしておりました。

布教師”西村順子”の誕生

ある日、これだけは言わんといて、という言葉が出てきました。

「順子ちゃん、明日からにをいがけに歩きなさい」と。

「ガーン、、、お願いだから行かせんといて!」

と心の中で叫びましたが、口からは「はい!」と出てきました。

先生が長年親に尽くしてこられて、積み上げた誠の理が私に「はい!」と言わせてくださったのです。

次の日から一人でピンポーン「こんにちは!天理教です!」

「いらんわ!」

断られたらホッとする毎日です。

先生は毎晩私に尋ねてくださいます。

「今日はどんな出会いがあったの?」

と聞かれるので、今日はサボりたいなぁ、公園でちょっと寝たいなぁ、と思ってもできません。何か出会いの一つも持って帰らないと、話ができないからです。

ある日先生もお疲れで寝てしまわれて、

「やれやれ今夜は聞かれなかったわ。」と思った途端、カッと目を見開き、

「今日はどうだったの?」

と聞かれたのです。何か執念を感じました。育つかどうかわからない私を毎晩毎晩、マンツーマンの練り合いで育てようとしてくださったのです。

当時の私には猫に小判の毎日でした。勿体無いことをしました。

そうこうしているうちに、夏のこどもおぢばがえりのお誘いに歩いている時、とある町に迷い込みました。雰囲気が違う、でも何かわかりません。

歩いている金髪の小さな女の子に声をかけると、

「家の人に会って話して」

と言うので、連れて行ってもらいました。

その子は、神戸で有名な組の中でも、一番武闘派と言われた組長の孫だったのです。姐さんに会うと、

「バス一台用意したろ!子供集めといたるわ!」

と言われ、「やった!嬉しい!」と思い、当日待ち合わせの場所にいそいそとバスを持っていきました。バス一台分の人が集まってくれています。

可愛いらしい子供のはずが、怖い兄さんたちが集まっていました。姐さんが

「子供皆、暑いから嫌や言うねん。しゃーないからこの子ら集めておいたから、連れていって。普段悪いことばっかしよるから、神様のとこ連れてったって〜」と言うのです。

「はい、、、」

半袖からはお絵描きの腕ばかり、よく見ると、指も本数足りない、とても兵神詰所には泊まらせられない、迷惑かけれない。

宿泊客のない詰所を探して、泊まらせてもらいました。

よくよく姐さんから言われていたのか、おとなしくついてきてくれます。夜のパレードでも、ゲームのお兄さんたちによく従って、どや顔で真剣にゲームしておりました。

詰所に帰ると、早速、こたつの天板をひっくり返して花札が始まります。でも、バス全員が天理教を好きになってくれ、その中の一人からおたすけが入ってきました。

「うちの子助けてくれへんか?シャブ中でな、この間刑務所から出てきたんやけど、また薬やっとんねん。ずっと警察から隠れとんよ。薬辞めさせて。」と。

「はい、わかりました。」

と受けましたが、私の腕を引っ張って姐さんが外に連れ出し、

「あんたな、あの子だけはやめときよ。父親は人殺して、今、刑務所や。母親も同んなじようなもんや。あの子もな、薬切れて、人刺して入ったんやから。なんぼ天理教でも無理やで。あんた刺されるで。」

と、心配のあまり引き留めてくれました。

「やめれるもんやったら、やめときたいわ。」と心の声。

でも教祖が下さったおたすけですので、教祖は裏切れません。

腹を決め、「大丈夫です。何かあったら、私の運命です。」と返答しました。

その晩、夜10時にその子のいる団地の一室に行きました。夜遅くしか起きていないからです。

ピンポーンと押した途端、ドアに点いてる郵便受けがガシャーンと団地中に鳴り響いて落ち、ドキッとしました。

「こんばんは、天理教です。」

向こうは警察ではないため、ドアを開け「なんや?」と答えます。

「少し話聞いてもらいたい。」

と言うと、「入って」と迎えてくれました。

薄暗い部屋、入りたくないけど、入らないとおたすけになりません。

「失礼しまーす!」

入ってから2、3時間ずーっと、私を世間の代表者であるが如く、文句を言い、鬱憤を晴らすのです。

「俺はな、悪のサラブレットやで。親から親族からみな極道や。まともな人は一人もおらへんで。そんな血の流れてる俺がな、助かるわけないやろ。」

「ほんまや。」

と言いたいところですが、「そんなことない!」と頑張ります。

毎晩通いまして、時には調子悪く、常に持ち歩いているサバイバルナイフをチラつかせながら文句を言ってきましたが、だんだんと

「こんな俺のとこ、来てくれてありがとう」

と言ってくれるようになり、夜中に教会に連れていき、明け方家に送ることが何日も続きました。

向こうは昼寝れるけど、こっちは昼間は布教、寝る間もないおたすけでした。

来るのはいいのですが、瞳孔は開き、薬独特の匂いをさし、幻覚に怯えながらくるのですから、他の住み込みさんたちからは、

「順子さん、ちゃんと責任を持ってよ。そば離れんようにしといてよ。危ないのに。」

と随分叱られました。

ようやくおぢばに連れて帰ってからは、薬をやめることができました。

どんな状況であっても、教祖はたすけて下さると知りました。

言葉にできない教祖のお働き

今年元旦から能登で地震がありまして、大勢の皆様も教会が全壊されたりして、心が痛みましたが、神戸も阪神淡路大震災がありました。その震災のとき、説明のつけようのないおたすけを体験しました。

家族が皆、創価学会員という30代の奥様と出会いました。主人がアルコール中毒で悩み、日参が始まった12月。

12月は仕切りと言って、常よりは、まとまったものを上級を通して、おぢばの世界だすけのためにお供えさせて頂く時期なのです。

その世界の方々をたすけていく、尊い金銭の使い方を説明し、

「参加されたらどうでしょうか?」とお伝えしました。

次の日、その方は驚くほど持ってきて下さったので、

「どうされましたか?」と聞くと、

「実は、主人がお酒で狂って、毎晩のように私に包丁を突きつけてくるのです。お腹が大きい時もそうです。その包丁とお腹の間に小学校5年生の長男が手を広げて私を守ってくれるのです。このままだといずれ事件が起こります。家族全員の葬式を出したと思ってさせてもらいました。」と言うのです。

地震は1月17日ですが、その1週間前の1月10日、奥さんが教会に走ってきて、

「先生、昨日長男が『怖い』と言って夜中外に飛び出して、近所の小学校の体育館で震えていたんです。どうゆうことでしょうか?」

と聞くので、何かただ事ではないなと感じ、

「何か長男のために理作りできますか?」

と尋ねると、次の日、学資保険を解約して持ってこられました。

早速、そのお供えをおぢばのかんろだいにさせて頂き、何かわからないけど、無事を祈らせてもらいました。

地震前日の1月16日、その方の家に行き、「なんかこの家怖いね。」と伝えると、

「そうなんです。引越ししたいんです。」という会話をして別れました。

次の日の早朝、未曾有の地震。普段は20分の距離を何時間もかけてその家に行きました。

そのあたりはすべて全壊、ましてや小さな木造の平屋ですから、ひとたまりもありません。

近くでは火事も起きています。ペッシャンコもペッシャンコ、家の厚みもありません。

「あぁ、生き埋めになってダメだった」

と思いましたが、以前長男が震えていた小学校の体育館に行くと、一家全員無事でいたのです。

会うなり、奥さんが

「かんろだいがたすけてくれました!屋根の真ん中がかんろだいのように、ぽっかり穴が空いて、そこから全員出れました。」と言うのです。

「あぁ、おやさま、この奥さんの真実をお受け取りくださって、こんなに鮮やかにたすけてくださった。」

と感動しました。

着のみ着のまま、パジャマ、素足、ガラスや釘などの中を家族6人、擦り傷1つせず、たすけて頂いたのです。

その後、一家6人で神戸から8時間かけておぢばに帰り、修養科へと入っていただきました。

と、様々な身上や事情のおたすけでたくさんの不思議を味合わせて頂き、気がつくと、住み込みの我々が何十人もの住み込みを抱えておりました。

教会設立・神殿普請への歩み

三代会長(前会長)より教会設立、神殿ふしんのお声がけをいただきました。

会長さんから毎日のように不動産のチラシを渡され、

「見に行きなさい!早くしなさい!」

と言って頂き、見に行こうとすると、二代会長の木下寿美子先生からは、

「探すことならん、あんたたちはおたすけであたわる。兵庫の姉さんと私で成るだけの種は蒔いてる」

と止められるのです。

兵庫の姉さんとは、主人の祖母です。

木下先生は尽くしの御用をいつも祖母に頼んでくださっており、祖母も必死で親の声に添っていました。ふしんが建つだけの伏せ込みをしているという意味です。

困ったな、探したら怒られるし、身動きの取れない数年間が経ちました。

そうこうしている間に、肝心の主人が突然お昼間、部屋で倒れていたのです。

「何、冗談してるの」

と見たら、顔は土気色、、、

「え、どうしたん?」

と困惑しながらも、おさづけをしている間に、救急隊員が来ました。

「奥さんどこに連れて行きますか?」

と聞かれましたが、病院なんか知らないので、近くにある「徳洲会病院」と言いました。

今、ニュースで話題になっている病院です。

友人が「霊柩車で戻ってくるよ。」と言いました。

その主人をたすけるために、前会長さんは多大な尽くしを運んで下さり、父は会社を閉じてその土地を天浦にお供えして下さり、信者さんや教友の皆さんが真心の尽くしや真剣にお願いづとめをして下さって、そのおかげで命をたすけていただきました。

最初、脳外科では

「再起不能です。息してるだけでも、ありがたいと思ってください。重度のくも膜下出血レベル5です。しかも、脳幹が二発爆発しています。治療は血を止める以外ありません。天理教で何か方法はありますか?」と聞かれるので、

「おさづけがあります。」と言うと、

「それをぜひやってください。この人にはそれしかありません。」

と言って頂いたので、集中治療室に入れ替わり立ち替わりでおたすけに来て下さった方々におさづけを取り次いで頂きました。

周りの患者さんが文句を言うと、お医者さんが

「あの人にはあれしかないのです。」

と言って守ってくださいました。

手術は大成功で血を止めれましたが、しかし意識は戻りません。そのままの人も大勢います。

「婦長さん、主人はいつ目が覚めるのですか?」と聞くと、

「奥さん、それは神様の世界です。」と言われ、

「そうそう、それはこっちの方がプロやった」

と思い、我が事となるとうろたえていました。

そばについてても助からないので、おたすけの人を連れておぢばに帰ると、教祖殿の廊下で「今、目が覚めました」と連絡が入りました。

おやさま、ありがとうございます。

奇跡的に身体に麻痺はなく、目だけ全盲になっていました。

10月30日に倒れて入院し、11月の23日。

「先生、26日にはおぢばに帰らねばなりません。先生の努力はもちろんですが、神様に助けていただいたので、26日は外せません。」と申し上げると、

「再び倒れても知りませんよ。じゃあ退院してください。私は天理教の神様のことは分かりませんが、ご主人はその天理教の神様にたすけられましたよ。医学ではありません。」と言われました。

目の方も後日、見れるようになったのです。

しかし、5年間ぐらいは、寝たり起きたりで、ふしんどころではなくなりました。

その年末、私も台所で大層深く指を切り、二人ともなす術もなく、部屋でこたつに入っておりました。忙しい年末に辛かったです。

「何なのこれは、ふしんも頓挫、一生懸命してきたつもりなのに、なんでやの。」

などと思っていまして、横にある水筒を飲んだら、洗剤だったのです。

泣き面に蜂とは、まさにこのことです。

「指は切るわ、洗剤飲むわ、一体私が何をしたん」

と思っていた時、ふっと、あるおたすけを思い出しました。

公園でぼーっと立っていた23歳のきれいな青年に声をかけると素直に教会に来てくれ、日参をしてくださいました。

おぢばに帰った次の日から、姿を見せなくなり、どうしたのかな?と思っていると、母親が訪ねてきて、その青年が新幹線に乗って伊豆に行き、知らないマンションの窓を壊して、警察に捕まっていると言うのです。

早速、両親と共に迎えに行きましたが、統合失調症とのことでした。

それから毎晩毎晩まっ裸で走り回り、今日は垂水署、今日は葺合署と、警察に迎えに行きました。

ちょうどその息子が10年前、13歳の時、母親が10年前、野菜の裁断機で指を第一関節から切り落としていたのです。

もしその時に、天理教と出会っていれば、息子さんの姿も変わっていたと思います。そのけがで神様は、10年後の重大なことをお知らせくださっていたのでしょう。

私の切った指は、その母親が切った同じ指だったのです。私の息子も13歳です。

もし、この節で道を切ったら同じ運命、、、

と悟りました。不足に思う心を洗い流しなさいと、洗剤まで飲ませてくださり、不足の心を正気に戻してくださいました。

木下先生のお付きをしている時、日参をしていた主人と出会い、結婚しましたが、主人は当時、司法試験浪人をしておって、弁護士を目指しておりました。

「医者がダメだったら匙をなげる。弁護士も揉める運命を変えることはできない。それができるのは、天理教の布教師だけ。会社を継いでも、年収という枠がある。道一条に出るということは、無の世界に入る。無限の世界に入るんだ!」

との話し合いから、夫婦で道一条を通っているわけです。ここで引くわけにはいかない、と思い直しました。

数年経ち、主人が元気になった頃、設計士さんを紹介いただきました。建設会社も決まってきます。

しかしここでまた、躓きます。

愚かにも、世間知らずの我々は、建設資金を用意しなければならないことを知らなかったのです。

尽くしてさえおれば、神様が建ててくださる。天から降ってくるぐらいに思っておりました。

設計士さんに呆れられましたが、用意できる信者さんもなく、慌てて銀行に回りました。すべて断られ、世間の厳しさを思い知らされました。最後の頼みの綱で、天理市の銀行に行ったところ、キッパリ断られる始末です。

地震で家は2軒潰れ、主人は死にかけ、ようやくここまできたのに、、、

ふぅー、根も精も尽き果てて、ガックリと肩を落として北大路を歩いておりました。

横にいた青年に「しっかりしてください!」と言われ、

こんなこと人から言われたことないのに、、、私ももう終わりやな、、、

元気そうに見栄を張る気力も残っておりません。

そんな私を偶然通りかかった車に乗っていた最上級の奥様がご覧になって、心配のあまりに怒って電話をいただきました。

「どうしたの?なんて姿で歩いてんの?何があったの?すぐ相談にきなさい!」

とのお声です。行けるはずもなく、でもその声でハッとしました。

資金が天から降りてこないということは、尽くし足りないのだ!

と気づいたのです。フッと思いついた遠方の一度も会ったことの無い人のもとへ、背水の陣で、おやさまにおすがりして行きました。

神殿ふしんの尊さと、天から神殿をお借りする資格づくりの理立てをお願いしたのです。

「で、どのくらい?」

と聞いてくださったので、「建設の1割」とお答えすると、

「どうしてそんなに?」と仰るので、さまざまお伝えしておりました。

後ろで洗い物をされていた奥様が

「いいわよ、3日後に振り込んであげるわ」

と仰ってくださいました。おやさま存命の理を熱く感じた瞬間です。

そして、その理立てをした後、これで断られたら、ふしんはもう諦めようと決意して入った銀行であっさりと、

「ちょうど天理教さんと縁をつけたいと思っていたのですよ。」

と言ってくださり、天浦の会長様ご夫妻の多大な親心をかけてくださったおかげで建設会社とも契約できました。

建築が始まったら、6ヶ月のあっという間に建ちましたが、何年も何年も待ってくれていた、吉野のヒノキが白い布に包まれ、トラックで運ばれた時は嬉しかったです。

「たすかります。」

という声に、一部の望みをかけて来てくださった方々とおつとめがしたかったのです。

ギャンブルや酒におぼれ、妻子に見限られ、死のうとした人たち。

家族にいじめられ、殺そうと思いさまよっていた人。

うつになり、絶望し、首に縄をかけた人々など。

皆々、我々と共ににをいがけに歩く中で、

「なぜそうなったのか?」

と気が付き、自分の間違いに気づき、人々に自分のたすかりを話し、気が付くと人をたすける側に回っている。

たすけられなければならない絶望のふちから、たすける側に周らせて頂いたのです。

少しの勇気を持って声をかける中に、命を絶ったり、罪を犯したり、精神が病んだりするところからたすかっていったのです。

こんなステキな事ってあるでしょうか?

命を懸けて御諭達の親心に応えたい!

私たちはおつとめがしたかったのです。

ましてや、おやさまは、こんな拙い布教師にでも、おたすけを願うと、聞いてくださらなかったことは1度もないくらい、お働きくだされた。勿体無い。

御諭達に「ひながた、ひながた」と何度も言ってくださっているのに、今までちっとも本気で取り組んだこともなく、申し訳なかったなと、せめて今回の年祭は、本気で考えてみようと思っています。

「水を飲めば、水の味がする」

そう、どんな中でも親神様の御守護に感謝して生きてゆくんだな。

「ふしから目が出る」

そう、ふしの度に前に進ませて下さった。そして、

「人をたすけたら我が身たすかる。」

そう、人々のたすけを思って歩く中、何よりも自分がたすけて頂いた。心を変えて頂いた、運命を変えて頂いた。

おやさま、こんな出来の悪い私をたすけ一条にお仕えくださり、ありがとうございます。

この信仰の素晴らしさを一人でも多くの方にお伝えすることに、残りの命をかけていきます。