応法(おうぼう) とは?
天理教のたすけ一条の道はおつとめとおさづけです。
おやさまは晩年、ご自分の身上を台として、一同におつとめをする決心を促されました。
しかし、当時天理教は教会の公認がされていなかったので、官憲の圧迫を受けておつとめをすることが難しい状態でした。
初代真柱様は一同を代表して、親神様は「つとめ、つとめ」とせきこまれますが、人間は法律にさからうことはできません。
どうか教会設置をお許し下さいと申し上げると、親神様は「律がこわいか、神がこわいか」と胸のおきどころを諭され、法律に応じてつとめをやめたり、また法律に応じて教会公認の手続きをとり、しかる後につとめをするというような通りやすい、消極的ないわゆる「応法の道」をお許しになられなかったのです。
親神様に対する心定めが第一で、「応法の道」は第二なのです。
おやさまが現身をおかくしになられてから、子供可愛いゆえ応法の道として教会設置が許されています。
また後年、学校設置のお許しをうけたときも、神様は応法の道としてお許しになられています。
しかし、それはあくまでも応法の道おして許されたので、本質である神一条の信仰を忘れてはならないことを重々お諭し下されています。
神一条の信仰の道を忘れて、通りやすい応法の道、すなわち世界並の道に流れないように心がけることが大切です。