抽冬鶴松 ぬくとうつるまつ
元治元年(1864)12月23日、大阪府大鳥郡富蔵相(現、堺市富蔵)に、抽冬楠治郎の長男として生まれた。
幼少より虚弱体質であったが、16歳の頃胃病を患い危篤状態となる。
親戚の者のとりなしで浅野喜市(古市大教会初代会長)を紹介され、はじめておぢばに帰参した。
このとき教祖(おやさま)にお会いして、赤衣を被せていただき、一週間の滞在で胃病をすっかりたすけていただいた。
これを期に生涯世界だすけを誓い、布教活動に専念した。
明治13年(1880)神徳講第二番の講元を命ぜられたが、明治22年高安分教会の所属となり、光道講第10号と改称。
同年9月10日におさづけの理を拝戴し、明治23年には、抽冬家の家督を相続したが、負債にたえられず、かねてからの約束どおり、全財産を整理して、まさに教祖のひながたの道を歩んだ。
その結果布教の実が上がり、明治25年1月22日、大鳥支教会を設立。
翌明治26年1月上神谷村釜室664番地に、土地を借りて新築・移転した。
その間、明治19年9月10日に長男増太郎が誕生した。
その後教会運営を役員に委ね、高安の役員として、また修理人として不振教会の整理に当たった。
明治32年5月31日「おさしづ」により一家を挙げて高安に住み込み、教会勤めに専念したが、留守を任せていた大鳥支教会の役員間に乱轢が生じて、経済的にも破綻寸前であった。
そんな状況にあって信者の中から土地献納を申し出る者があって、教会移転事業を開始すると、布教活動も盛んとなり教勢も広がった。
鶴松は、こうして今日の大鳥大教会の礎を築いたが、この頃より健康がすぐれず、大正4年(1915)に長男に担任をゆずり、昭和3年(1928)6月11日に出直した(65歳)。