日々の理とは?
神様のお言葉に
みななるほどの理がわかれども、日々の理がわからねばどうもならん/\、親の話親さんの話やとたのしました、成程の理がわかりても、日々の理がわからにや、なんどきに何程のいでがくえるやらつぶれるやら、これしれん
明治22年4月17日
と仰せられてりますように、親神様のお話を「なるほど!」と思って聞かせて頂いても、それを日々に身に行っていかなければ意味がないのです。
「日々の理」とは、教理を日々に行って、身におさめていくことです。
国家百年の大計と言われるように、理想や空想はというのは元来大きいものであり、現実に実行というのは小さいものであるのです。
立教185年3月の御本部神殿講話「尽くし・運び」について「おさしづ」に
日々の道を通りて道といふ
明治24年1月18日
と仰せ下されています。
「日々の道」を真実に通ってこそ、はじめて道と言えます。
「一日生涯」という心で、少しずつでも親神様の思召しに近づいていきましょう。