中尾休治郎 なかおきゅうじろう
生年月日不詳。
平群郡越木塚(現、生駒市平群町)の旧家で、代々質屋を営む。
休治郎(久次郎)は幼名を富松といい、通称「富さん」と呼ばれていた。
入信の時期は定かではないが、休治郎が足痛のとき、教祖(おやさま)の許へ請ってたすけられたときからと伝えられる。以後、熱心な信者となる。
明治11年(1878)4月頃に、お屋敷において秀司を中心として真明講が結ばれたが、その真明講の4人の世話人の1人として名を連ねている。
その頃「竜田の勘兵衛、越木塚の富さん」といって、本部のつくし頭だったという。
一説によれば、教祖より息のさづけ(さずけ)をいただいたともいわれる。
妻ふじも熱心であったが、明治15年頃、ふじが自分に神がかりがあるといって、神のお告げを伝えるようになり、ある夜、夢で教祖から叱られて、それからおぢばへ運ばなくなったという。