よし先生の生い立ち
明治2年7月4日、よし先生は兵庫県篠山町で、明山家(母宇能・養父謹七氏)の長女として誕生なされます。
明山家待望の子として産まれたが、そこに待ち構えていたのは不運な運命でした。
幼少期
謹七は大変不適当な人で、ことごとく財産を失い、挙句の果てには、他にも女を作るというような男でありました。
こういったことが原因で、母・宇能は経験のない農の手伝いや女中奉公等をして子供を養います。
そのため、よし先生や弟達も小さい時から、奉公に或いは物売りにと、家計を助けるために一通りでない苦労をされます。
結婚
明治20年2月、よし先生はさまざまな事情の上から隣家の中川弥吉へ嫁がれます。
しかし、夫弥吉も無頓着でよし先生はとても苦労されます。
明治23年、よし夫妻は弥吉の姉いよ夫妻が住んでいる大阪に行きます。
入信
当時、弥吉の心境は、自分の過去や未来への心配などを抱える状態から、何か安心の道を無意識に求めていた時であったそうです。
そういった事から、いよからだんだんと理を聞き分けるようになり、よし先生も同時に入信されるようになります。
天理教教祖伝登場人物一覧厳しい「理の人」・限りなく優しい「情の人」
よし先生が最も厳しく仕込んだのは、本芝大教会2代会長白木原アキヨでありました。
よし先生のアキヨに対する仕込みは厳しく、東本に住み込んだ2年間、炊事場の御用を任されます。
この期間、布団で寝巻きをつけて寝たことはなく、いつも帯をしめ、炊事場の火鉢にもたれたまま、うたた寝をしたと伝えられています。
理不尽と思える仕込み
また、理不尽と思えるような仕込みも多く、よし先生の子どもや教会の人達のためにと思って一工夫して少し贅沢な食事を出すと、厳しく叱られることが多くあったようです。
そして、よし先生の仕込みはいよいよ厳しくなり、人のしたことまでアキヨ1人がしたように叱られたそうです。
しかし、よし先生は無闇にアキヨを叱ったのではなく、人のいない時にアキヨを呼んで、優しく諭されたそうです。
受けるだけの精神
よし先生は、誰彼構わず仕込むという訳ではなく、受けるだけの精神が出来た者だけにお仕込みをするという信念の元、仕込まれたそうです。
またよし先生は、会長宅の中にいても、閉ざされた門の外で信者達が参拝している拍手を聞いて、その人を把握しており、会長宅の中からいちいち添い願いをされていたそうです。
教祖一条
よし先生が熱心に信仰するようになったのには2つの理由があります。
- 教祖の御道すがらである。
- 家庭の事情より深く胸に染みて来た因縁一条の道である。
教祖のひながたを知ったよし先生は、このように述べられています。
初めて教祖の御履歴を伺って、世の中にはそれ程尊いお方もおありなさるのに、自分には数にも足らぬ勤めを行なって、それに満足を抱いたり、不足を感じたりした自分の料見に愛想がつきた。ただもう私は、自分の身に立ち返って恥じ入るばかりで、打ち倒れて泣きました。
このような点からよし先生は、教祖のことを思い、慕われたことが分かります。
よし先生は、22歳の入信の時~54歳で出直すまで、教祖を慕い続け、その生涯をかけて、ひたすらたすけ一条の道を貫かれたのであります。
信念の徹底
よし先生は、教祖に関することは、その信念で徹底されていました。
東本の人が演壇から話をするとき、たとえ話の内容がどれだけ立派であっても、教祖について一言でも触れない限り「道の話としての生命がない」と、必ず厳しく注意し、叱っておられたそうです。
よし先生は、教祖を語ったり、想ったりするごとにその一生を泣き通されたくらいに教祖一条であられたのです。
身上お返しの直前
そしてよし先生が胃ガンによって身上お返しの迫った日のこと。
よし先生の弟子達をかわるがわる病床に招き、「教祖のお話をきかしておくれ」と言われたそうで、言う通りに弟子達が語り始めるか始めないかのうちに、もうよし先生の目は涙でいっぱいになり、
「申し訳ありません、/\。ありがとうございます、/\。」
と、涙声でそれだけを繰り返されたそうです。
まとめ
中川よし先生の真実が、のちに本保・本愛・本芝・本荏・本理世といった大教会や、500以上の部内教会を持つ大きな教会を築く礎となったのです。
中川よし先生のような教祖への思慕やいんねんの自覚といった心。
また真似のできないような苦労の道中や数々のおたすけ話・且つ自分はちっとも苦労をしていない、申し訳ないというさんげの心には、言葉に表すことのできない思いでいっぱいです。
これから道を通るにあたり、少しでも参考にして通らせていただきたいと思います。