増井とみゑ ますいとみえ
増井とみゑは、慶応3年(1867)10月11日、河内国大県郡大県村(現、大阪府柏原市大県4丁目4番19号)において、父増井惣三郎、母増井りんの長女として生まれた。
父の出直しから2年経った明治7年(1874)とみゑ8歳の時、母りん(32歳)はソコヒの身上から失明してしまったが、緑あってお道(天理教)の教えの理を開くことができ、親子3人心定めの上、水行して、三日三夜のお願いに取りかかり、全快の御守護を頂いたのである。
とみゑの生い立ちは不明であるが、その入信に至る経緯には、こうした母親の失明という身上があったのである。
とみゑが生涯お道を通ったその心の中には、この母親の身上の際に「今後、親子三人は、たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます。」という家族一同の堅い心定めがあったことであろう。
そして不思議な守護を目のあたりにして、人に倍して強い信仰心をもって歩んだことがしのばれるのである(『稿本天理教教祖伝逸話篇』58-60頁)。
とみゑの事歴については詳しくはわからないが、明治10年(1877)、教祖(おやさま)自ら三曲の鳴物を初めて教えられ、その控えとしてとみゑ(11歳)の名前があげられている。
母とともにいつもお屋敷に帰っていたようであるが、この時には、そのまましばらくはお屋敷にいたのであろう(『稿本天理教教祖伝』136頁)。
その後もお屋敷に引き続きつとめていたのであろうか、明治24年(1891)とみゑが25歳になる頃には、お屋敷ではとみゑの縁談話が出ていたようである(さ24・6・30)。
しかし、明治28年(1895)1月25日、とみゑが29歳の時に、櫟本150番屋敷に住む山下伊太郎(詳細は不明)の二男山下丑松(慶応元年3月4日生)を養子に迎えている。
同年10月14日に分家し、夫婦二人は山辺郡丹波市三島94番屋敷(母りんの当時の住居、詰所の前身にあたる)に住むことになる。
とみゑには子供ができず、明治32年(1899)とみゑ33歳の時、本家の兄、増井幾太郎の二男幾次郎(当時11歳)を養子としている(さ31・5・12、31・11・13、32・1・16、32・3・25、38・7・4、39・8・17)。
明治41年5月31日出直し(42歳)。