今園国映 いまぞのくにはえ
「稿本天理教教祖伝』279頁に、「くにはえ」とあるが、「くにてる」が正しいようである。
芝山国典の二男国峡は、文久2年(1862)奈良興福寺の賢聖院に入り僧となり、明治元年(1868)正月、同院を相続したが、同年4月堂上家出身の門跡・諸院家は復飾を命ぜられ、明治2年11月家名を今園と称した。
ついで明治8年華族に列せられ、17年男爵を授けられる。
いわゆる奈良華族の一人(『国史大辞典』吉川弘文館)。
【全26家】奈良華族を紹介します!なお子爵説(『日本人民大辞典』平凡社)もある。
天理教は官憲の公認が得られず布教上支障が多かった。
明治18年(1885)3月7日、大阪の信者、竹内末誉至が信者森田酒蔵らと画策し、天理教会創立事務所をおやしきの向かいの村田長平のとうふ屋(屋号)に置き、会議を開き公認を得ようと奔走したが、実らなかった。
そこで同年4月29日、天理教会結収御願を大阪府知事宛てに提出したが、6月18日却下。
ついで同年7月3日、今園国峡を担任にして神道天理教会設立御願を大阪府知事宛て提出した。
この時も認可を得られなかった。
今園氏という貴顕の名前を借用し、願書を提出すれば、あわよくば認可されはせぬかと一緒の希望を繋ぎ、事を運んだものと思われる。