天理教人名辞典 平野辰次郎 ひらのたつじろう

平野辰次郎 ひらのたつじろう

安政3年(1856)10月10日泉州堺(現、大阪府堺市)に父平野禰平、妻ウノの4人兄弟の長男として生まれた。

14、15歳頃より薪炭問屋に奉公して信用厚く、後に番頭にもなったが、18歳頃から病を得て、鮭を常食する程であった。

医薬や諸神仏への限りを尽くし、時には百日参籠の願をかけ滝に打たれての荒行までしたが、その効なく養生を続け勤めた。

明治12年(1879)24歳の時、同じ堺の山本多三郎から親神の話を聞き、その日のうちに6年間続いた病気は快癒した。

不思議なたすけに歓喜した辰次郎は「おぢば」に帰り、蒸風呂に入り、お話を聞いて帰った。

ある日、教祖(おやさま)にお目通りがかなって、親しく

「私の手を握ってみなされ」

と仰せられ、力一杯握ったが、それにも勝る力で握り返され、その力の偉大さに驚いた。

その時、

「先は永いで。どんな事があっても、愛想つかさず信心しなされ。先は結構やで。」

とお言葉を下された(『稿本天理教教祖伝逸話篇』118-120頁)。

明治14年入信2年目の26歳の時、信仰の熱心さにより、教祖より朝日組講元のお許しを得た。

ある日の「おぢば」帰りの折、教祖から

「身にさわりがついたら用があるので、帰っておいで」

と仰せられ、2度目のさわりの時、「おさづけ」(おさずけ)をいただいた。

明治20年陰暦正月26日の早朝、激しい腹痛に襲われ、何の知らせかと「おぢば」へ帰ると、丁度午後2時の教祖のお隠れの時であった。

かくして反対攻撃の中でも命がけともいう布教により、堺に道は伸び広がり教会設置の機運が訪れた。

明治23年5月2日「おさしづ」によって堺支教会が許された。

しかし、地方庁の認可がおりなかった。

この間、辰次郎は日和佐にも道をつけ、教勢を固め教会設置を図り、明治24年4月27日に日和佐支教会長ともなり、堺と日和佐をかけもちで奔走した。

やがて堺の地方庁の認可を得て、辰次郎は堺支教会長として、明治25年4月1日遷座祭及び開廷式を執行した。

教会設置後、道はさらに広島、下関から北九州へと伸び、辰次郎の生前中に12カ所の教会設置をみた。

明治34年3月30日出直した(44歳)。