林九右衞門 はやしくえもん
天保元年(1830)、摂津国住吉郡喜連村(現、大阪市平野区喜連)にて、林忠右衞門、ふさの長男として生まれた。
明治15年(1882)、弟である利助の身の患いから、話を聞き入信、同年、二男の長造が材木を満載した牛車の下敷きとなり、背骨を折り、足の甲が粉砕するという大怪我を、全快のご守護をいただいて、ご恩報じのため、生涯をたすけ一条に捧げる決心をした。
足繁く「おぢば」へ通う中、「赤衣」(あかき)をいただいた。
この赤衣を桐の箱に入れ、これを持っておたすけに回った。
明治18、19年頃のこと。
教えが弘まり始めると、僧侶、神職などの、世間の反対攻撃もまた次第に烈しくなってきた。
それらの反対に辛抱し切れなくなって、こちらからも積極的に抗争しては、と言う者も出てきた。
平真組二番の講元であった九右衞門は、おぢばへ帰って、このことを相談した。
取次(とりつぎ)から、教祖(おやさま)に、この点をお伺いすると、
「さあ〜悪風に譬えて話しよう。悪風というものは、いつまでもいつまでも吹きやせんで。吹き荒れている時は、ジッとすくんでいて、止んでから行くがよい。悪風に向こうたら、つまずくやらこけるやら知れんから、ジッとしていよ。又、止んでからボチボチ行けば、行けん事はないで。」
と、お論し下された(『稿本天理教教祖伝逸話篇』183話「悪風というものは」)。
明治28年7月17日、林九右衞門を担任として、喜連村に摂陽支教会の許しを得たが、地方庁の認可が得られず、その後、数度にわたって設立を願って教会本部の許しは出るのだが、地方庁の認可が下りず、とうとう明治41年の一派独立を待たねばならなくなった。
明治41年7月23日、籔田駒太郎名義にて喜連宣教所(現、分教会)の許しを得、同年8月、ようやく地方庁の認可を得た。
九右衞門は、明治43年6月28日、81歳で出直した。
- 天理教中河大教会『天理教中河大教会史』第2巻(天理教中河大教会、1980年)
- 高野友治『天理教伝道史』第1巻(天理教道友社、1954年)